長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座:安満岳信仰の歴史的経緯

  安満岳信仰の歴史的変遷については、「安満岳の奥の院様」の号でも仮説を提示していますが、もう少し詳しく見てみましょう。
  安満岳に対する信仰は当初、海民による山に対する素朴な御山信仰(原始神道)から始まったと推定しましたが、その根拠には安満岳の見え方の問題があります。西側の生月島や海上から見た安満岳は、幅広い三角形の山体の頂に切り立った崖に囲まれた山頂が載る優美で特徴的な山容を見せています。しかし他の三方から見た時には、何処が山頂かも分からない特徴が無い山容です。その事から安満岳は、特徴的な山容を見ることができる平戸島西岸側の、恐らくは海に関係する人々によって信仰され始めた事が考えられるのです。さらに平戸島南端の志々伎山の信仰のあり方を参考にすると、山自体を信仰対象として山中を不入の聖地とし、山麓や海、対岸から祀る形態だった事が推測されます。
   中世に仏教が普及すると、清浄な聖山の山中を寺院の立地とする事例が多く見られますが、安満岳についても平氏政権期頃の12世紀に山岳寺院(西禅寺)が成立したと思われます。寺院建立の主体は、山の前の海を通る航路「大洋路」に関係した中国人海商(綱首)で、寺院は航海の安全祈願とともに、現実的な航路の維持や運行にも関与した事が考えられます。また山頂に祀られた白山神については、加賀の白山権現信仰に由来するというより、中国大陸の大白山神との関連が疑われ、寺院建立と同時に原初の山体を対象とする信仰の形から、白山神という神を山頂に祀る形に変化した事が考えられます。
   中国人海商は、平戸地方では、平戸瀬戸に面した平戸を中継港として利用する拠点(唐坊)としたため、安満岳の白山神や寺院への参拝路も、中野から山野口を経て登る道が設けられて主要な参拝路になったと思われます。この参拝路は山頂の緩斜面に達した所から西に真っ直ぐに道が延びて山頂の白山神(奥の院)まで達していて、道の左右に建物の痕跡や墓地が確認できるからです。一方で西岸の春日からの参拝路や、主師を基点に山野口で主要参拝路に合流する道も、生月島民など西岸地域の人々が御山(白山神)や寺院を参拝する道として利用されたと思われます。
  16世紀中頃に生月島や平戸島西岸にキリシタン信仰が広まると、安満岳の仏教寺院は反キリシタン勢力となりますが、キリシタンとなった住民は御山への信仰をキリシタン信仰に反映させて、安満岳の奥の院様を聖地として神寄せの対象に加えたと考えられます。なお永禄7年(1564)には松浦隆信によって安満岳の仏僧の領地が没収され仏僧達が追放されたとされ〔フロイス1564〕、これが事実なら、仏僧不在の時期にキリシタン信者が安満岳山頂(奥の院)を参拝し、オラショを唱えるなどした可能性もあります。
   江戸時代に入る頃には、安満岳の寺院本尊・白山神(仏僧による祭祀)への信仰は、平戸藩主ら平戸及び平戸島の人々によって継続されます。山頂にある現三ノ鳥居は元和8年(1622)に松浦隆信によって建立された値賀川内系明神鳥居です。また山野口から直ぐの所の現二ノ鳥居は天保11年(1840)に松浦熈によって建立されたものですが、17世紀に流行した肥前鳥居の様式を復古調に用いています。一方で、生月島民の御山信仰も(キリシタン信仰以外の形でも)継続していて、参拝登山も行われていますが、山野口には昭和19年(1944)に舘浦のまき網漁民によって明神鳥居の現一の鳥居が建立されています。(中園成生)




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