生月学講座:黒田(墨屋)家の史的意義
- 2025/04/01 10:18
- カテゴリー:生月学講座
舘浦の旧家である黒田家は、これまでの様々な分野の研究によって、各時代に多角的に重要な役割を果たしてきた事が明らかになっています。
第1は、17世紀初頭期のキリシタン信仰における役割です。黒田家では代々、お掛け絵(掛軸形の聖画)「受胎告知」を継承されており、かつてはクリスマスにお掛け絵を飾って祀っていました。生月島のキリシタン信仰に聖画が導入されたのは1600年頃と推測され、在部(農村部)には信心会という組の信心対象として聖画が祀られました。但し受胎告知をモティーフとしたお掛け絵は島内では黒田家のものだけです。こんにち在部の各集落にある「垣内(津元)」と呼ばれる組は信心会の末裔ですが、浦部では確認できません。恐らくは禁教期に入った直後の舘の浜(舘浦)では、キリシタン信者の中で有力な家が、お掛け絵などの重要な信仰用具を保持した事が考えられます。
第2は、18世紀初頭期の九州地方への大規模定置網導入の先駆者としての役割です。大規模定置網漁では戦国~近世初頭に富山湾周辺で成立した台網が、江戸の前期に日本海沿岸を西に伝播し、17世紀末頃長州に伝わって「大敷網」と呼ばれた事が確認できます。この網は岸から沖に延びた道網の先に、箕の形をした本網が網口を岸に向けた形で付いていましたが、九州伝播後には本網の向きが90度転換して岸と平行方向に網口を向け、口の両側に斜めに短く伸びた袖網を持つ形に変化しています。この網が九州で始まった事を示す文書「覚」が益冨家文書に存在し、その中で経営者である平戸の山口屋茂左衛門と墨屋五左衛門が、享保7年(1722)暮れから始める「敷網」の純利益の1割5分を、出資者である田中長大夫と畳屋(のちの益冨)亦左衛門に渡す約束をしています。墨屋は黒田家の旧姓(屋号)ですが、大正8年(1919)制作の『生月村郷土誌』には「當時漁業ノ中心地ハ舘浦ニシテ元禄以降、田中、墨谷(墨屋)、伊藤ノ諸氏各々鮪、鰤ノ漁獲ニ従事シ。中ニモ墨谷氏ノ如キハ大ニ富ヲ得、遂ニハ浦方町全体ヲ己ノ屋敷トシ、琵琶ノ首等ニハ別邸ヲサヘ設ケテ一代ノ富豪ヲ極メシト云ヘドモ」と、当時の繁栄を記しています。
第3は、舘浦への須古踊り導入における墨屋家の役割です。須古踊りは16世紀後期に佐賀平野周辺で流行した風流踊り系統の芸能ですが、生月島には住民にキリシタン信仰を捨てさせる目的で導入されたという伝承がある事から、17世紀中期以降に伝播した事が想定されます。舘浦須古踊りには墨屋家から、本来芸能を捧げる神霊の依代だった傘鉾が提供されていますが、この傘鉾は元々平戸藩から下賜されたものとされています。前述したように墨屋家が大敷網に関与した時期には藩に多額の納税を行い得た事を勘案すると、傘鉾の下賜(しいては須古踊りの始まり)は18世紀前期だった可能性があります。
第4は、水産物加工や浦住民の生活の維持に不可欠な燃料供給に関する役割です。昭和初期頃、黒田家は「キドンヤ(木問屋)」と呼ばれ、平戸島西岸地域の諸村民が伐採し船で運搬してきた薪を買い取り、浦の各家に販売していましたが、墨屋という屋号から考えると、江戸時代前期頃から炭や薪の商いに従事していたと思われます。薪は家々の炊事に用いた他、昭和初期頃には刺網や巾着網・縫切網で捕獲した鰯から、鰯油や煮干しを製造する際の燃料として大きな需要がありました。薪の対価は西岸諸村の住民の貴重な収入となりましたが、こうした富の循環によって舘浦の漁業生産を核としたブロック経済が機能し、周辺地域における社会・信仰構造が維持されたのです。(中園成生)