生月学講座:物語装置としての戦争
- 2025/08/28 16:19
- カテゴリー:生月学講座
生月学講座:物語装置としての戦争
学生時代から各地の民俗を調査するために土地の古老の方から聞き取りをしていると、途中で話が逸れる事があり、そんな時は無理に話題を戻さずひとしきり話を伺ってから戻るようにしていました。昭和の終わり頃までは戦地に行かれた経験を持つ男性の方も多く御存命だったので、逸れた話が戦争の話になる事もよくありました。私の小学生時代には松本零士の戦場まんがや第二次大戦ものの戦車や軍艦、飛行機のプラモデル製作が男の子達に流行っていて、私も多分に漏れず戦記物や雑誌「丸」をよく読んでいました。そのお陰と言っては何ですが、戦争の話を伺っても全く内容が分からないという事はありませんでした。生月に来て少し経った2000年から町の広報(『広報いちつき』)に1頁の連載枠をいただき島の歴史や文化について書くようになりましたが(それがこの『生月学講座』の起源です)、夏の回にはよく戦争関連の特集をしていました。その時には島の古老の方に直接、戦争体験を伺っていましたが、2020年代になると戦争体験者は殆ど居られなくなり、若い頃にもっとお話を伺っていれば良かったとつくづく後悔しました。
戦争体験を伺っていると、よくお話をしていただける方と共に、殆どや全くと言っていいほど話をされない方も居られる事に気付きました。身近な存在では、私の母方の祖父(戦争などで夫を亡くした祖母の後夫という、私とは血の繋がりが無い方でしたが、すごく可愛がってもらいました)も戦争ではニューギニアに行っていたと祖母から聞いていたのですが、祖父にその時の話をせがんでも話を逸らしてしてくれませんでした。今思うと祖父の戦争の記憶には、物語として記憶したり話すのが嫌な程、辛かったり悲しい出来事があったのだと思います。
生月島壱部浦の山浦福義さんから伺った戦争体験(講座No76で紹介)では、乗船した特設砲艦(北京丸)は座礁の末撃沈、次に乗船した空母「千歳」もフィリピン沖海戦で撃沈、最後に乗船した軽巡「北上」は人間魚雷「回天」搭載艦となるなど、常に死と隣り合わせの状態だったのですが、山浦さんは淡々と話をされていました。当時は飯が食えるだけでも軍隊はありがたかったという話も伺いましたが、戦争に行かれた方にとっては、軍隊は「飯が食えるところ」でもあり、また生まれた村しか知らない若者にとって、広い世界を知ることができる稀有の機会という側面もあったと思います。
島の館が数年前に寄贈を受けた『同盟写真特報』は、第二次大戦当時に発行された戦争を写真や文章で報じた掲示物ですが、そこには日本軍の勝利や勇敢な兵隊の活躍が喧伝されていて、当時の国民がこうした媒体を通して戦争から多くの物語を受容していた事が窺えます。田助出身の作江伊之助さんが関わられた「爆弾三勇士」の話も報道を通して日本中に広まっていますが、様々な媒体を通して伝えられる戦争の物語を見るにつけて、戦争は政治や外交、経済やイデオロギー・宗教などが関わって起きるものなのですが、個人にとっての戦争は、なによりも強力な物語装置として存在・機能している事を感じます。国家もその事を理解した上で、戦争をメディアを用いて物語として呈示する事で、個人を直接国家という共同体に接続する事を試みていきます。だがその状況下では、個人の戦争体験から生まれる悲劇の記憶は封殺されてしまうという事を、理解しておく必要があります。
(2025年9月 中園成生)









