生月学講座:遣唐使船の船型
- 2026/04/30 09:06
- カテゴリー:生月学講座
生月学講座:遣唐使船の船型
開催中(令和8年度春季)の企画展のお題は「港と船」ですが、それと『続日本後記』に記録がある、生月島が承和6年(839)に最後の遣唐使使節が最初に故国の土を踏んだ場所であるという(ただその際、使節一行が乗船していたのは遣唐使船ではなく、帰国のためチャーターした新羅船)少し強引な関連付けで、今回は遣唐使船の船型についてお話ししたいと思います。とは言え話の主旨は既に島の館HPの「平戸史再考」に纏めているので、詳しく知りたい方はそちらを御覧下さい。
従来というか現在も主流の遣唐使船の復元船型は、鳥船型ジャンクの船体構造と帆走装置(網代帆)を備えた姿です(島の館にもこの船型の復元模型が展示してあります)。鳥船型ジャンクは中世には博多にも頻繁に来航していた船型で、朝鮮半島南西の新安や、元寇船が沈没している長崎県の鷹島沖でも沈船が見つかっています。同船型は、先行する沙船型ジャンクで実現していた多数の隔壁で船体を保持する構造と(鉄の消費材である釘の大量使用によって実現)、8世紀に中国に到達したアラビア商人の船・ダウの逆三角形断面で船底に竜骨を持つ船形、ダウの風上方向に間切り帆走が出来る三角帆(縦帆)の機能を再現した網代帆(縦帆)を融合した、極めて高い航行性能を持つ船型です。
しかし遣唐使船を鳥船型ジャンクとした場合、早くても8世紀頃と思われる同船型の登場以前の7世紀には遣唐使の東シナ海横断航海が始まっているという事実が問題になります(途中で船型が変わった?)。また同船型を取ったにしては、遭難が多発したり、後方や斜め後方の風でしか航行できない事、航海中各船がバラバラになり特定地点に航海するのもままならない(帆走性能が主問題と思われる)状況など、考えにくい点が多くあります。原因を、航海に不向きな時期の選択や、当時の日本の拙劣な造船技術に求める向きもありますが、根本的な原因は船の構造や帆走装置にあると考える方が自然です。
『日本書紀』白雉元年(650)の記述には役人を安芸国に派遣して百済船2隻を建造するという記事があり、直後の白雉4年(653)5月に出発した遣唐使船2隻について、『日本書紀』に1隻あたり120人程が乗り組んだという記述がある事から、この時の遣唐使船は朝鮮半島南西部の百済で建造されていた百済船の船型である事は確かです。百済船自体は現存していませんが、後の朝鮮半島の大型船のあり方から推測すると、船底は船首尾方向に分厚い板を並べて貫で貫通させた平底で、舷側は狭い横板を並べて板同士を釘で縫い繋ぎ、舷側間に渡した梁で船体を保持し、船首は縦板壁(戸立造)、船尾は横板壁(同)です。船底が平底なのは干潟の浅海が多い朝鮮半島南・西沿岸に適応したものですが、帆走では横流れしやすいという弱点があります。また船底の貫の部分や舷側を梁で補強する構造は脆弱性を有しており、前後が真っ二つになったという遣唐使船の事例も説明できます(但し切断後も浮いているので隔壁も持っていた可能性はあります)。百済船の帆走艤装は三角帆の中国到来以前なので横帆と考えられ、専ら後方からの風で航行する状況と合致します。以上の点から遣唐使船は百済船型を踏襲したものだと推測します。
なお承和の遣唐使が帰国(生月来島)に際して雇った新羅船については、航海の内容から、船底が平らで隔壁を多く持つ沙船型ジャンクの比較的小型のもので(但し横流れを防ぐために大きな船尾舵を有した)、網代帆(縦帆)を装備していた事が考えられます。
(2026年5月 中園成生)









