長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

平戸史再考No.007 遣唐使船とその航海

遣唐使船とその航海

 

 筆者が初めて平戸に来たのは今から36年前の夏、卒業した福岡市の高校の郷土研究部の離島調査にOBとして参加した時だったが、その時目に付いたのは港に係留されている錆付いた遣唐使船形の遊覧船だった。その船から平戸と遣唐使との関係を知ったのだが、36年後に平戸で遣唐使船についての考察を書いている事を感慨深く思う。

漢から三国時代を経て、4世紀に晋が滅亡した後、中国は長く南北に王朝が鼎立する時代が続く。そして589年、北朝の随が南朝陳の首都・建康を陥落させた事で、中国は晋の滅亡以来270年を経て再び隋に統一される。隋の建国直後、日本(大和朝廷)では推古女帝のもと厩戸皇子(聖徳太子)が摂政に就き、蘇我氏の協力を得て仏教を重視した国家体制の整備を進め、607年には隋の都・洛陽に使節を送っている。しかしその後隋は南北を結ぶ大運河の建設や失敗した高句麗遠征の負担で国家経営に困難を増し、農民の大反乱が起きた結果、618年に隋の武将・李淵が隋の皇帝から禅譲を受けて即位して唐を建国する。建国直後は帝位争いや国内の対立勢力の対処などに追われるが、2代太宗の時代(626~49)になると勢力の拡大に転じている。その唐に日本は舒明2年(630)使節を派遣している。これが遣唐使と呼ばれる使節で、その後承和5年(838)まで複数回(回数は研究者の捉え方によって12回から20回の間で異なる)派遣されているが、第一回の後、日本では645年に実力者の蘇我氏が中大兄皇子と中臣鎌足に倒される大化の改新が起きている。

同時期の朝鮮半島では、北部の高句麗と南西部の百済、南東部の新羅が勢力を競い、大和朝廷は百済を支援していたが、7世紀中頃、百済は高句麗と連合して新羅に侵攻し、新羅は対抗上唐に救援を求める。唐はそれに応えて軍を派遣し、660年には唐・新羅の連合軍が百済の首都・扶余を陥落させ、663年には唐の水軍が百済復興軍と大和朝廷の水軍を白村江(錦江)で破っている。ここに大和朝廷の朝鮮半島戦略は頓挫し、同時に大和朝廷は唐・新羅の侵攻に備えて、城の築造や防人の配置などの防衛策を取らざるを得なくなる。なお大和朝廷の百済救援軍の派遣や補給は、海北道(朝鮮海峡横断航路)を航行する多数の準構造船が担い、平戸周辺を含む北部九州沿岸の海人も乗組員として徴用されたと思われる。

最初の遣唐使船は、難波(大阪)から瀬戸内海航路を経て那の津(博多湾)に到着した後、海北道と朝鮮半島西岸の百済領沿岸を経由して中国に向かう北路を航海したと考えられる。なおその二回後の白雉5年(654)2月に派遣された遣唐使船も『日本書紀』には「新羅の道を取りて萊州に泊れり」とある事から北路を用いて唐に向かっており、このように北路を使った場合には準構造船を使用した可能性が高いが、実はその前の白雉4年(653)5月に出発した遣唐使船2隻については、『日本書紀』に1隻あたり120人程が乗り組んだという記述があり、準構造船よりも大型の船が使用されている事が分かる。この船について『日本書紀』白雉元年(650)の記述には倭漢直縣、白髪部連鐙、難波吉士胡床を安芸国に派遣して百済船2隻を建造するという記事があり、この百済船が第2回遣使に使われたと思われるが、『日本書紀』にわざわざ船の乗組人数が記されている事などに、朝廷が従来無かった巨船を準備した事を誇示する意図を感じる。そして「百済船」という名称から滅亡前の百済で建造されていた船だと推測されるが、準構造船の表記である「大船」と異なる名称を用いている事から、準構造船とは異なる、おそらくは構造船であった可能性が高い。この船の構造については本項の最後で詳しく述べたい。

なおこの白雉4年(653)発遣唐使の大使船は不幸にも往路に薩南の竹島付近で沈没しているが、朝鮮半島沿岸を航行する北路を利用したにしては、えらく南まで流された印象があり、おそらくは朝鮮半島南西端あたりから東シナ海を横断する航路(朝鮮発進南路)を取った可能性が高い。例えばその次の遣唐使船が「新羅の道」(北路)を使用しているのも、白雉4年発遣唐使船の航海の失敗が反映されているのではないかと考える。

次の斉明5年(659)発の遣唐使船2隻は、『日本書紀』によると7月3日に難波を発し、8月11日には筑紫の大津を発し、9月13日に「百済の南畔の島」に至り、翌日より「大海に放れ出」ているが、副使船はそのまま北東の「はなはだ急し」風に乗って翌々日の9月16日夜半には越州会稽県の須岩山に到着している。一方正使船は逆風に遭って南海の島「爾加委」に漂着し、乗員は島民に殺されている。この副使船の航海が朝鮮半島発進だが南路を取った最初の確実な記録となるが、これが前述した白雉4年発遣唐使船の航路でもあった可能性がある。この航路(朝鮮発進南路)については元々、百済が山東半島や渤海経由を避けて直接中国大陸に向かうために開拓した航路であり、この航路を利用するために用意されたのが(百済で造られた)「百済船」だと考えられる。その後の大宝2年(702)年に筑紫を発した遣唐使船も楚州塩城県に到着したとあるので、朝鮮発進かどうかは不明だが東シナ海を横断する南路を用いたものと思われる。

天平勝宝4年(752)発の遣唐使船については『万葉集』に歌が残っている。例えば遣唐使船については「そらみつ大和の国は 水の上は地行くごとく 船の上は床に居るごと 大神の斎へる国そ 四つの船 船の舳並べ 平けく早渡り来て 返り言奏さむ日に 相飲む酒そ この豊御酒は」(4264)という歌があり、養老元年(717)発遣唐使以降4隻編成となった遣唐使船が「四舶(四つの船)」と表現されていた事が分かる。また歌の中で、日本の国は水の上を大地の上を行くが如く、船上も家の床と同じように感じられる程安定するように大神(住吉神)が守っているとしているが、日本の国の一部である遣唐使船(四つの船)もまた同じだと言っている訳である。ここで陸の如き安定性が強調されているのは、巨船である遣唐使船のあり方が反映されているように思える。

この使節の大使・藤原清河は大使任命後の2月13日、春日神社の春の祭に出席するが、その時叔母に当たる光明皇太后は「大船に ま楫しじ貫き 此の我子を 唐国へ遣る 斎へ神たち」(4240)と詠み、清河も「春日野に 斎く三諸の 梅の花 栄えてあり待て 帰り来るまで」(4241)と返している。光明皇后は藤原の氏神である春日神社に清河の無事帰還を祈願しているが、その歌とは別に「海神のいづれの神を祈らばか行くさも来さも船の早けむ」(1784)という入唐使に贈る歌も興味深い。遣唐使船の早い航海を祈願するのにどの神を拝めばいいのかという意味だが、例えば従来の墨江―那津航路ならば両端の住吉、綿津見神を祈願し、那津―朝鮮半島間の海北道なら宗像神に祈願する事ができたが、南路の東シナ海を横断する航路の場合、どのような神に航路の加護を祈れば良いのかという迷いがあったのかと思うと興味深い。

 なおこの遣唐使船の往路は4隻とも無事に中国大陸に到達しているが、復路は第1~3船が阿児奈波島(沖縄)漂着後、第1船は驩州(ベトナム)に、第2船は薩摩国阿多郡秋妻屋浦(南さつま市坊津町)、第3船は益救島(屋久島)に到着し、第4船は薩摩国石籬浦(揖宿郡頴娃町石垣浦)に到着している。このように遣唐使船の到着地は往路も含め、どこか特定の港を目指して航海するのではなく、とにかく目的とする国の陸地に着きさえすればいいという、今から見ると特異なあり方だった。なおこの第4船の舵取りは肥前国松浦郡の川部酒麻呂が務めているが、同船は復路に船尾から火災を起こしている。その時酒麻呂は舵を回して船首を風上に向け、自ら火傷を負いながらも舵を離さず火災をくい止めている。これは現在も行われている船火事の対処法だが、この功績により朝廷から外従五位下を授けられている(『続日本記』宝亀6年(775)4月10日の記事)。この事から南路の沿岸である松浦郡の人々が遣唐使船の航海に参加し、舵取りのような責任がある役職も務めていた事が分かる。

宝亀8年6月(777)に松浦郡橘浦を出帆した遣唐使の4船は、往路は全船揚州海陵県、楚州塩城県に到着しているが、翌年の復路、第2船は薩摩国出水郡に、第3船は松浦郡橘浦に帰着、第4船は耽羅島(済州島)に漂着後、甑島に帰着している。そして第1船は高波で船が破損して船体が真っ二つになりながら、艫側にしがみついた40余人がかろうじて天草の西仲嶋(長島)に漂着している。

延暦22年(803)発の遣唐使船については、4月14日に難波津を出港しているが、4月21日に暴風疾風に遭って碇が使用できない状態になり、ついには船が打ち破られ、一旦旅程は停止されている。この記述から遣唐使船は建造地の安芸国から瀬戸内海を東航し、難波に停泊して諸物資を積み込み、使節が乗り込んだ後、瀬戸内海を西航して那津を目指している事が分かるが、多島海で潮流も複雑な瀬戸内海は、限定的な帆走技術と大きな船体で操船が難しい遣唐使船の自力航海には不向きな海域である。そのため恐らくは、多数の大船(準構造船)で遣唐使船を曳航した事が考えられる。

この遣唐使船は延暦23年(804)に再出発し、那津を経て、7月6日に松浦郡の田浦から4船が出発している。第3船、第4船は悪風に遭って筑紫に戻っているが、第1船は8月10日に福州赤岸鎮に着き、第2船は7月のうちに明州に着いている。この第1船にはのちの弘法大師・空海が乗船しており、到着後の筆談などで活躍している。なお第3船は翌延暦24年(805)7月4日に松浦郡庇良島(平戸島)を発して遠値嘉島(五島)を目指しているが、南風に遭って遭難し孤島に漂着している。かりに遣唐使船に横風帆走の能力があったのなら南風は中国大陸に向かえる風だが、実際には北方に流されており、恐らくは五島列島の無人島に流れ着いたのだろう。

延暦23年(804)に再出発の地となった「田浦」については、平戸島北部の田ノ浦や五島列島久賀島の田ノ浦とする説などがある。現在、平戸島の田ノ浦周辺の岬上には弘法大師像が建立され、平戸市はこの縁もあって弘法大師の生誕地である香川県の善通寺市と姉妹都市を締結している。しかし大師像がある岬の西側の入江は北西風は遮れるが、入江の規模(奥行200幅100㍍)と水深(5㍍程度)が停泊地として不十分で、30㍍300㌧と推測される遣唐使船が4隻も入港するのは不可能である。一方岬の東側の入江は広さや水深は問題ないが、北に向けて開けた奥行きの無い湾のため停泊中の風波の影響は避けがたく、やはり良い停泊地とは言い難い。一方、久賀島の田ノ浦湾は入口に長く延びた砂嘴があるため殆どの方向の風を避ける事ができ、前面の田ノ浦瀬戸も幅がある(2㌔)ので潮流の影響も少ない。入江自体の規模も奥行き400幅最大300㍍と広く、水深も10㍍程あるので、停泊条件では久賀島の田ノ浦の方が適地と言わざるを得ない。

もう一つ留意せねばならないのは遣唐使船の帆走性能に即した航行パターンである。後述する承和の遣唐使船の航海記録を見ると明らかだが、往路の遣唐使船は、その後中国商人が日本に来航するのに用いた船(ジャンク)のように平戸瀬戸から五島灘を通過する航路は取らず、博多湾を出航後は自力帆走で平戸島の北側海域を通過して五島列島西岸に達し、さらにそこから東シナ海に乗り出しているが、こうした航海の場合、平戸田ノ浦も寄港や再出航には適した位置ではある。しかし久賀島の田ノ浦湾も五島列島西岸線からは若干奥まった所にあるものの、東シナ海に出るのに不都合と言える程ではない。一方で、田浦出港後戻った第3船が再出発の際に庇良島(平戸島)から遠値嘉島(五島)を目指している事も少し気になる。これが仮に前回出発と同じコースを辿ったのだとすれば、五島灘経由で久賀島田ノ浦に向かった可能性があるからである。例えば櫂を使って沿岸を航行する大船(準構造船)が五島に行く場合には、風波の影響を避けるため、平戸瀬戸経由で平戸島南端から五島灘を経て五島列島に渡った事が考えられるが、延暦24年再出発の第3船や前年田浦発を久賀島と推定した場合の船団も、平戸瀬戸を大船の曳航で通過した可能性はある。

承和3年(836)5月に難波を発した遣唐使の船は、7月那津を発した4隻は悪風に遭遇して第1、第4船が肥前に漂廻し、第2船は松浦郡別島に着き、第3船はひどく破損したため乗組員が網板や筏に乗り移って対馬に漂着している。残る3隻は承和4年(837)7月に再度那津を出発し、松浦郡旻楽埼(福江島三井楽)を目指すが、またもや逆風に遭遇し、第1、第4船は壱岐に、第2船は値嘉島(平戸島)に漂着している。3度目となる承和5年(838)の航海には第1船と第4船が参加しているが、この航海については使節に加わっていた僧・円仁の記録『入唐求法巡礼行記』に詳しく記されている。

それによると円仁を含めた一行は6月13日午時(12時)に那津で第1船に乗り込むが、順風が無く3日間停泊を余儀なくされる。17日夜半には嵐風(陸風)が吹いたので帆を上げて艫を揺るがして(すなわち追い風で)進み、巳時(10時)に志賀島に到着している。しかし再び順風が吹かずに5日間停泊している。22日卯時(6時)に漸く艮風(北東風)が吹いたので出発し、途中入港する事無く夜も航海して23日巳時(10時)に有救島(五島列島北端の宇久島)に到着している。この間の針路は西南西から南西で、風をほぼ船の真後ろに受けて帆走した事になる。また志賀島~宇久島間の距離は約100㌔で、28時間をかけて航海しているので、時速は約3.6㌔(2ノット)と低速である事も分かる。そして18時になると北東風に帆を上げて「海を渡る」すなわち東シナ海に乗り出す航海に出て、北東風を受け各船が灯火で位置を確認しながら夜間も航海している。24日に風は艮から巽(南東)に変わるが漂流にはならず、その後も2日帆走を続けているが、針路は西~西南西で風は南東なので風は船の後方左側から受けている事になる。27日には海の色が白緑に変わっている。28日には風は変わらないものの帆を傾けて坤(北西)を目指しているが、巳時(10時)には海は黄泥色に変わり、揚子江に入ったと推測されている。水深を測ると5丈から5尋程(15~12㍍)である。しかし東風が強く波も強くなり、船は浅瀬に乗り上げてしまい、帆は落ちて舵も折れたので帆や舵を放棄したが、船は波の打ち付けるまま傾く状態が続き、このままでは船体が折れる危険も出てきた。29日の朝には潮が引き、船底は裂けて泥に埋もれている状態となった。このまま潮が満ちると船は分解する恐れがあったため、左右の廬棚(櫓を漕ぐための棚か)を切り落として船の四方に付けて安定を増している。翌々日の7月2日には上げ潮に乗るが船は右に左に大きく傾き、その都度人々は反対側に寄ってしのいで死を覚悟する程だったが、中国の船に発見されたので乗員はそれに乗り移って揚州海陵県に上陸している。なお第4船も近い長江河口の泥上に着底し、遅れて出発した第2船は北方の山東半島の付け根の海州に到着している。

この遣唐使は復路の航海も興味深い。『続日本後記』承和6年(839)8月の記事によると往路で第2船以外の2隻が全損したため、楚州で新羅船9隻を雇い、そのうち7隻が大使・藤原常嗣とともに肥前国松浦郡生属島に到着している。これが実は生月島の名前が報告された最初の事例にもなっている。

帰還に新羅船を用いた事の背景には、新羅船の高い航海性能や、山東半島を経由する新羅船の安定した航路の存在、9世紀に入り頻繁に日本に来航するようになった新羅船の航海実績があると思われるが、この承和の遣唐使以降になると唐の商人の来日記録も記紀などで確認されるようになる(これについては次回に紹介する)。寛平6年(894)には新たな遣唐大使に任命された菅原道真が、遣唐使船による渡海の危険や唐国内の治安の不安を指摘して停止を上申し、9月30日には派遣が中止されている。これ以降遣唐使船が派遣される事は無くなるが、9世紀末には唐の商人が、高い耐航性や優れた帆走性能を持つジャンクを用いて頻繁に来日するようになっているため、わざわざ脆弱で低い航行性能の遣唐使船を用いる意義は無くなっていたのである。

最後に遣唐使船の構造や性能について考えてみたい。既に述べたように遣唐使船は『日本書紀』白雉元年(650)の記事には「百済船」と記されているが、日本船舶史の権威である石井賢治氏は遣唐使船を百済船に範を取ったジャンクだとし、その大きさを長さ30㍍程度、排水量300㌧程度と推定している(『図説和船史話』)。また帆走艤装については、鎌倉時代に成立した『吉備大臣入唐絵詞』に描かれた遣唐使船ではジャンク船と同じ網代帆となっている。ただ同絵巻の成立時期を考えると、鎌倉時代に日本に来航していた宋船(ジャンク)が参考になっている事は間違いない。だが7世紀中頃の中国も含む東アジアの大型船全般に関する情報は極めて少なく、9世紀に一般化するジャンクを7世紀まで遡せられるのか疑問は残る。かりにジャンクに近い船だとしても、記録によると航行中によく破損している事や、帆を使った細かい操船の状況が確認できない事から、船体構造や帆走艤装がかなり不完全なものだった事が想像されるのだが、このことも踏まえつつ筆者は別の可能性を考えてみたい。

最初は船体構造の検証だが、宝亀8年(777)発遣唐使の第1船は復路、高波で船が破損して船体が真二つになり、舳側と艫側はそのまま漂い、艫側にしがみついた40余人はかろうじて天草の西仲嶋(長島)に漂着している。この状況からジャンクと同様、船体内に横隔壁が存在し、前後に分断されても隔壁間に残る浮力で持ちこたえた可能性は存在するものの、真二つになったという事は、船底材の縦方向の中間に継いだ部分があったり、板同士の接合に脆弱性があった可能性がある。また棚根(舷側の根元)を破って浸水している事から、舷側の棚板と船底板との接合も弱かった事も考えられる。また承和5年(838)再発遣唐使船の航海を見る限り、速力は低速で、風も真後ろか斜め後ろから吹いているもののみを利用している事から、船首は抵抗が大きい戸立造り、船底は竜骨が無い平底である事が推測されるが、同船が中国沿岸で着底・破損後に船底が泥に覆われている事からも船底が平底だった事が想像される。次に帆についてだが、真後ろか斜め後ろの風しか利用していない事や、中国到着後に沿岸を航海して目的地の港に向かうような航海をせず、最寄りの陸地に漂着するような航海をしている事から、風上に向かって間切り走りが出来たジャンクの網代帆ではなく、横帆を装備していた事が考えられる。

以上述べたような船形や帆の特徴に該当するのは朝鮮船である。文禄・慶長の役期の軍船(とは言え絵画に描かれた船は役以降の時代に描かれたもの)や朝鮮通信使船に代表される近世の大型朝鮮船は、船底は前後方向に伸びる板を並べた平底で、板同士を貫で貫通して固定しており、船首は縦板壁、船尾は横板壁造り、舷側は狭い横板を並べて板同士を釘で縫い繋ぎ、舷側間に渡した梁で船体強度を保持する等の特徴がある。こうした構造や特徴は莞島で出土した11世紀の朝鮮船でも確認できるが(船首尾や帆装は不明)、特に莞島出土船では板同士の接合に木釘を用いていた事が報告されている。前述したように白雉4年発遣唐使船については明確に「百済船」と記されていたが、7世紀の百済船も中世の朝鮮船と同じ、平底、船首尾は板壁造り、舷側版同士は木釘で接合、横帆を装備などの特徴を有していて、それが遣唐使船にも受け継がれた事が考えられる。特に遣唐使船が座礁後に船体が損壊している例が多いのは、舷側板同士を接合する木釘や、船体を支える梁構造の脆弱性に起因する可能性が高い。

百済船をベースに造られた遣唐使船の航海は、難波から那津までは大船(準構造船)に曳航された移動であり、那津で大洋横断の準備を整えて出航すると、横帆で後方や斜め後の風を受けて五島西岸に至り、そこから更に良風を捉えて出航すると帆走でひたすら東を目指し、大陸にたどり着けばゴールというものだった。遣唐使船の難波から那津までの移動は、さながら宇宙ロケットが発射台に移動する段階で、自力帆走で大洋を横断する那津出航は、現代人がロケットで宇宙に向かうのと同じようなイメージだったのではなかっただろうか。言い換えると遣唐使船はそのような航海で(朝鮮発進も含めた)東シナ海を横断するために造られた特別な船であり、それゆえ大船(準構造船)が利用する沿岸伝いで狭い海峡を通過するような航路は、曳航しない限り困難だったと思われる。なお過去、遣唐使船の航路として北路、南路とともに紹介されていた、南西諸島経由の航路「南海路」については、実際には往復で南路を航行する途中で風が変わり、進路変更を余儀なくされたり、帆や舵を含む船体が破損し漂流するなどして結果的に南西諸島に到達したものであり、当初から南西諸島を経由する意図を以て利用されたものでなく、航路として認識されるようなものではなかったのである。 (2020.10中園記)

2020/09/30




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