明治の禁教解除とカトリック信仰

慶応元年(1865)、長崎の外国人居留地内にある大浦天主堂のフランス人宣教師と、浦上の潜伏信徒の間で歴史的な出会いがあり、実に250年間もの禁教をかいくぐった潜伏信徒の存在が知られる事となった。明治政府も当初は禁教政策を継承したが、諸外国の抗議にあい、明治6年(1873)には禁制の高札を撤廃したため、国内でカトリックを初めとするキリスト教の布教が可能となった。
生月島でも、明治初年(1868)黒島(現佐世保市)の吉田千代治による宣教を手始めに、明治5~6年頃(1872~3)には黒島の出口大吉・大八兄弟が教え方として来島し、ペール神父も暗夜に乗じて来島し、山田の小楠亀太郎氏宅の押入に籠もって布教を行いつつ禁教の撤廃を迎えた。明治11~2年頃(1878~9)神父達の言葉を確かめるべく、山田から米倉傳作、西村藤之助が長崎に派遣され、自ら信者となって帰還した。
しかし大部分の潜伏信徒には禁教の恐怖は直ぐには払拭できず、また自分達が守ってきた信仰の形と、明治に伝来したカトリック信仰との違いに戸惑いを隠せなかったようだ。
最も問題となったのは神棚仏壇の扱いだった。例えばある家では、隠居が村で決まったカトリックへの合流を果たすべく、息子のいない間に仏壇神棚を廃棄した。ところが息子が帰ってきて、カトリックになるのは構わないが仏壇神棚を棄てるのは良くないと、再び取り付けた。ところが運悪く、老人は程なく出席した祝いの席で卒倒し、そのまま死んでしまった。こうなるとそれはやはり仏壇神棚を粗末にしたせいだという事になって、カトリックに合流する者が減ってしまった。一方僧侶や神官も、有力者を巻き込み、檀家であり氏子である信徒達をカトリックにしないように破邪演説会を開き、果てにはカトリック信徒の暮らしを阻害するような十四ケ条の制定をはかった。結局平戸警察署長の仲裁で条項は撤廃されたが、ここに至り信徒の分裂は決定的となった。
カトリックは山田集落を中心に広まり、壱部集落にも若干の信者を獲得し、両所に教会が作られたが、大正元年(1912)には鉄川与助の手になる、ロマネスク様式煉瓦造の山田教会堂が建立された。山田の古老の話では、大正の終わり頃には、屋根葺きなどの共同作業も、かくれキリシタンやカトリック等の信仰の違いは関係なく一致協力して行っており、対立は解消されている。しかし、カトリック信徒と非信徒との通婚が増えたのは1980年代以降の事である。
2019/12/17









