長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座:大敷網の起源と伝播(その2)

生月学講座:大敷網の起源と伝播(その2)

 富山湾の台網の技術は、山陰で「大敷網」という名称を得た後、九州に伝わったようです。『五島編年史』を読むと、貞享3年(1686)の「於評定所有川村魚目村百姓共対決覚」の記事には、小倉や長門やそふか浦より有川の赤尾、友住に猟(漁)船を以て請浦を乞うた記述がありますが、「やそふか」とは安岡の事で、安岡の直ぐ北の湯玉が定置網の盛んな場所だった事から、この時有川湾に大敷網が入った可能性があります。また宝暦14年(1764)の「要用留書」の記事には、壱番鰤の水揚げが10652尾あった事が報告されていますが、これ程大量の鰤を取るためには大敷網が用いられた事が考えられます。また後世の文献ですが大正時代の『郷土誌』には、中通島西岸のかせ川の鮪網代は正徳元年(1711)に発見されたとありますが、根拠となる史料は記されていません。
 生月島では、益冨家文書の中の「覚」(NO1950-3)に、山口屋茂左衛門と墨屋五左衛門が、享保7年(1722)暮れから始まる「敷網」(定置網)の操業で、漁獲物の販売益から経費を引いた利益のうち1割5分を、田中長大夫と畳屋亦左衛門に渡す事を記した証文があります。山口屋と墨屋氏は経営者、田中氏と畳屋氏は出資者なのでしょう。大正8年(1919)制作の『生月村郷土誌』には「當時漁業ノ中心地ハ舘浦ニシテ元禄以降、田中、墨谷、伊藤ノ諸氏各々鮪、鰤ノ漁獲ニ従事シ。中ニモ墨谷氏ノ如キハ大ニ富ヲ得、遂ニハ浦方町全体ヲ己ノ屋敷トシ、琵琶ノ首等ニハ別邸ヲサヘ設ケテ一代ノ富豪ヲ極メシト云ヘドモ」と記されており、墨屋五左衛門は鮪、鰤の漁(すなわち大敷網)で財をなしたとされています。但しこの記述の元となる史料についても確認できていません。なお生月島東岸の松本に残る享保11年(1726)建立の海難供養碑と思われる花崗岩製石塔に平戸町の山口屋の名が刻んである事から、享保7年に墨屋氏と山口屋茂左衛門が大敷網を行った漁場は松本と思われます。
 18世紀前期に九州北西部で行われた大敷網の形態について窺える史料として、安永2年(1773)頃に制作された『肥前国産物図考』があります。この図説には佐賀県東松浦半島東岸の屋形石にあった鮪大敷網を描いた図が紹介されていますが、身網が海岸と並行方向に口を向けて設置され、網口両側に斜めに伸びた袖網が付いています。富山湾の台網や長州の大敷網と比べると、長い道網は短い袖網に変わり、身網の向きは90度変わっていますが、身網のダイの付き方は同じなので、ダイが沿岸流の障害となり、潮流が強い場所では難しかった事が考えられます。身網の形を除くと網全体の形は大きく変化していて、独自の大敷網という漁法が成立している事が確認できますが、この横ダイ型の大敷網が『審査報告』にある小値賀山敷だと考えられます。
 しかし『西遊旅譚』に紹介された天明8年(1788)当時の生月島松本の大敷網の平面図を見ると、奥が細まった三角形の身網は、前述の屋形石の網と同じく、海岸と並行方向に敷かれ、網口の両側には袖網が設けられていますが、ダイは身網奥の後方に奥辺と直交方向に二本付けられています。このような縦ダイ型の大敷網は、幕末や明治にも生月島周辺で盛んに用いられていますが、ダイの向きが沿岸流の障害にならないので、潮流が強めの場所でも大敷網が設置可能だったと思われます。この縦ダイ型の大敷網が『審査報告』にある正山敷だと考えられるのです。
(2025年3月 中園成生)

2024/11/13




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