生月学講座 No.038「高麗島の伝説」
- 2019/12/17 17:58
- カテゴリー:生月学講座
生月島の一般的な門松は、椎の木に笹竹や若松、ツルシバなどを付けるものです。椎の木を使うのは北松で広く行われていますが、これについては平戸の松浦氏第二十二代弘定が、中野の箕坪城での合戦に破れて博多・箱崎の金胎寺に難を避けていた明応元年(一四九二)の正月、その地の禁令で若松を得られなかったため、椎の木を代用にした事から始まったといいます。ところで舘浦には、門松の代わりにタブノキの枝を用いている家が何軒かあります。その理由として、年の晩に高麗島という島から慌ただしく移ってきたため、正月にきちんとした門松を立てるゆとりがなかったという話が伝わっており、同様の理由で注連縄も付けないそうです。中にはその地から伝わった高麗焼という焼き物を受け継いでいる家もあります。同じような伝承を持つ家は、他の集落にも何軒かあるという話を聞いたこともありますが、確認できていません。
高麗島という島は、小値賀島の西方にあったとされています。小値賀島に伝わる伝説によると、高麗島には一体の石地蔵が祀られていましたが、この地蔵には、顔が赤色に変わったら島が海中に沈むきざしなので、その時は速かに島を退去するようにという言い伝えがありました。ところが一人の者が、そんな事が実際にあるものかと思い、みんなを驚かそうと、ある夜密かに地蔵の顔を赤く塗ってしまいました。それを見た島民のある者は、言い伝えを信じて急いで島を離れましたが、残った者とともに、島は一夜のうちに海中に姿を消してしまったといいます。実際、高麗島があったとされる海域には高麗曽根という海底が見える位の浅瀬があり、鳥居のような石が見えるとか、漁師がよく焼き物を引き上げたなどという話を聞きます。
高麗島の伝説は、宇久島や小値賀島、久家島、福江島などにも伝わっていて、宇久島の野方には高麗島から牛が移ってきて、その牛の子孫は風の方向を向くといいます。また小値賀島の浄善寺には、海没に伴い高麗島にあった経巻が流れ着いたのを寺に納めたという話の他に、高麗島にいた悪者を寺の開祖が牡牛の応援を得て征伐したという縁起も伝わっているそうです。久家島の蕨地区には、高麗島にあったという首の長い地蔵様が祀られています。福江島には高麗島から直ってきた(移ってきた)家があり、やはり高麗の焼き物を証拠として伝え持っているそうです。
日本民俗学の祖、柳田国男先生も、小値賀島から上五島に渡る船の中で高麗島の話を聞き「高麗島の伝説」という論文を記しています。そのなかで柳田先生は、中国の古い説話の中に石像の顔色を塗り替える事によって島が沈む話がある事から、この説話が日本の古典に引用され、それが基礎となって物語としての高麗島伝説が作られ、恐らくは琵琶法師などの宗教者や行商人らによって各地に伝播したのではないかと推測されています。しかし特定の家のみが高麗島からの移住伝承を持つ事については、十分な説明がなされていません。例えば小値賀島の隣りの野崎島では、土砂崩れで壊滅した中世の海村が発掘されていますが、実際に、津波や地震、山崩れなどの災害で島や集落が壊滅した事は、この地域の長い歴史の中でも幾度かあったと思われ、被災者の悲痛な感情が根元となり、それに説話が結びついて伝説を形成していった可能性もあるのではないかと思うのです。