長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.042「松本大敷」

 舘浦から壱部浦に向かって海岸通りを車で走っていると、左手にいつも見慣れていた黒い木造建物がなくなっているのに気がつきました。この建物は元々、生月小学校の旧校舎の一部を移築・転用したもので、松本大敷の納屋として使われてきましたが、納屋は近年、壱部浦の埋立地に建った新しい建物に移転しました。元の納屋が建っていた場所は元触・小場地区の土地で、それを生月漁協が借りる形だったため、納屋が移転してしまった以上、建物も撤去する必要があったのです。
 松本の前面の海面にある定置網漁場の歴史は、今から300年前には既に始まっていたようです。もとの納屋が建っていた北側には、享保11年(1726)に平戸町の山口屋によって建立された供養碑が建っていますが、碑の石には当時この地方では珍しい花崗岩を用いています。山口県の水産資料には同じ頃、平戸の山口屋助右衛門という人物が長州の島戸・肥中浦(豊北町)で捕鯨を行う出願をした記録がありますが、松本でも当時、大敷網の経営に関与していたと思われます。大規模な定置網の事を生月では一般的に「大敷網」と呼んでいますが、この名称は正確には江戸時代から大正時代までにかけて用いられた網(漁法)の名称で、江戸時代にはこの網で大きな鮪を盛んに取っていました。
 江戸時代の松本の鮪漁については絵も残っています。江戸の西洋画家・司馬江漢は天明8年(1788)12月8日に松本で鮪の水揚げを見物し、そこの納屋場で阿波から来た大道芸人の芸を観ています。寛政6年(1794)に刊行された『西遊旅譚』には、松本での鮪網漁の様子や大敷網の構造、鮪の回遊を見張る「井楼」と呼ばれる塔などが絵で紹介されています。なお千葉市美術館に所蔵されている司馬江漢が描いた油彩画(通称「日本風景図」)も、どうやら松本から見た風景を左右反対に描いたもののようで、遠景の安満岳や壱部番岳とともに、松本前面の2本の突堤や納屋の建物が描かれています。
 松本の海辺には現在も石積みの突堤が残っていて、夏場には海水浴をする子供達で賑わいます。元は南側に短い受け波戸もあったそうですが、今は道路の下になっているそうです。突堤の全長は約40メートル、天場(上面平坦部)の幅は約3メートル半、沖側の基底部からの高さが7メートルで、10トンを越える巨石が使われています。昔は、松本の南に残る正田波戸のように、人力のモッコで担げるくらいの石で築かれていたそうですが、戦後、台風で崩壊した時に、小場の人々が起重機船を使って修復したそうです。古くから港湾建設で高い技量を持つ小場地区ならではの話です。
 もとの納屋の敷地の横を流れる川は、昔は納屋の生活用水にも使っていたそうです。この川のほとりにある大石には注連縄が張られていますが、ガッパ石と呼ばれ、座ったり汚したりしてはならないと言われています。またガッパ石から少し遡った所には大きなタブの木があり、その下にフタガワ様という川の神様を祀る石祠があります。旧暦9月15日のフタガワ様の祭日の時は、昔から松本大敷の関係者が神主さんを呼んで神事を行いますが。その時にはガッパ石にも魚を供えて神事を行っています。

 




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