長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.045「生月鯨太左衛門の伝説」

 島の有名人、生月鯨太左衛門は記録によると、江戸時代の終わり頃である文政一〇年(一八二七)三月二一日に舘浦に生まれ、天保一五年(一八四四)には一八歳で大坂場所に登場し、翌年には江戸相撲に進出して江戸っ子の度肝を抜きましたが、嘉永三年(一八五〇)五月二四日に二四歳の若さで亡くなっています。亡骸は平戸・松浦家の江戸の菩提寺である天祥寺に葬られましたが、そこに現存する墓碑の銘文で没年や若干の履歴等が確認できます。資料面では、当時の番付表にも前頭の所にしこ名があります。また、江戸相撲に登場した弘化二年(一八四五)と翌年にかけての鯨太左衛門ブームで多数の錦絵が印刷されたため、それによって彼の顔立ちや、身長七尺五寸(二二七センチ)など体格についても知ることができます。
 このような確かな記録ではありませんが、生月島には鯨太左衛門の幼少から青年期にかけての伝説が沢山残っています。例えば誕生について『最新松浦誌』に、親の多七・ハル夫婦が志自岐大菩薩に詣って男子の誕生を祈願したところ、夢のお告げがあって要作(鯨太左衛門の幼名)を授かったという話があります。また壱部浦には、夢で現れた鯨が大宝寺にお詣りに行くので行きがけには取ってくれるなと言ったが、結局捕獲されてしまい、その事があって暫くして大きな赤ん坊(要作)が生まれたため、人々はあの鯨の生まれ変わりだと噂したという話があります。また別の話では、ある日母親の夢に子持ち鯨が現れ、自分を見逃してくれたら子供を授けようといったため、父親が取らずに逃がすと、お告げどおりに子供を身籠もり、産まれた子供は鯨のように大きかったといいます。
 幼い頃の鯨太左衛門(要作)の力自慢の話も二通りの話の筋があります。そのうち重い物を抱える話では、三歳の時引臼を抱えた、五歳の時造り酒屋の近藤家で一厘銭百貫五〇把をやすやす抱えた、七歳の時同じ近藤家から米俵を持ち帰った等の話がある他、先般志自伎神社の宮司さんに伺った話では、同神社の上宮の石祠を山頂まで抱え上げたそうです。
 もう一つの力自慢話の筋として、船と綱引きした話があります。ある話では、要作は重すぎて父の漁船に乗せて貰えなかったため、出漁の時もやい綱を放さず駄々をこねたといい、また別の話では、そのまま綱を引っ張ってとうとう船を引き揚げてしまったそうです。しかし一方で、父親の船が帰ると独りで船を引き上げ、やすやすと船をひっくり返してアカ水を出すといった親孝行の面を示す話もあります。また壱部の話では、青年になった要作さんは暫く益冨家に世話になっていたそうですが、時化の時、八丁櫓の勢子船と綱引きをさせようという事になり、最初こそ足が砂にめり込みましたが、足場を固めると俄然要作の方の引きが強くなり、とうとう船を浜に引っ張り上げ、櫓も折れてしまったそうです。
 郷土で見知った人が江戸に上って有名人になった。それは当時の島民にとって何よりの大事件だったでしょうが、語り継がれるうちに話が膨らんでいったところもあるようです。

 




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