長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.048「昔のアゴ網」

 生月島で盆を過ぎるころに吹き始める北風は、別名アゴギタと呼ばれ、この涼しい風が吹くと、もう夏も終わりだなあと寂しく思うものです。しかしこの風は名称が示すように、アゴ(飛魚)を運んでくる風でもあり、島では昔からアゴ漁が盛んに行われてきました。
 長崎県水産試験場の水田さんのお話によると、長崎県の近海に回遊する飛魚は、ホソトビウオ(マルトビ)、ツクシトビウオ(カクトビ)、ホソアオトビの三種類で、前二者は五月から七月にかけて成魚が九州から山陰にかけての砂地の海底の所にやってきて、岸近くで産卵を行うそうです。この成魚は初夏に定置網に掛かることがあります。誕生した稚魚は二~三カ月程たつうちに二〇センチ程に成長し、岸近くに寄ってきますが、これが北風に吹き寄せられたものを捕獲している訳です。なおホソアオトビは南の流れ藻に産卵したものが、海流に乗ってきて孵化するのだそうです。
 昭和初期の舘浦のアゴ漁の様子は次のようなものでした。早朝、スラという船を載せる台を片づけたり用意したりする役の子供達が、乗組員を起こして回り、二艘のテント船に船頭、オモテ役、ワッキャシと呼ばれる者達が各七~八名程乗り込み、四丁櫓を漕いで出漁しました。漁場は辰の瀬戸から壱部浦にかけての海域ですが、風向きで吹き寄せられる所が異なるため、船頭の采配でアゴが集まっていそうな海面を目指しました。当時のアゴ漁は二艘船曳網という漁法で行われ、二艘の船がアゴの群れを囲むように綿糸製の網を入れていき、反対側で合流すると、綱をたぐって引き揚げます。そうすると網の中心にあるミトと呼ばれる袋網に、アゴが入ってくる訳です。網を入れ終わると、各船から一人が海に入って、泳ぎながらアゴをミト網の方に追い立てますが、船の上からも、オモテ役が、石を投げたり、ヤナザオと呼ばれる先に白いトベラの木の板や白布を付けた竿で水面を叩いて追い立てます。一網で多い時は一斗入りの検知枡で七~八杯取れる事もありましたが、夕暮れまでに多い日には五〇回も網を入れるため、櫓漕ぎも含めて大変な重労働で、ガガという弁当箱に一杯御飯を詰めて持っていきました。
 取れたアゴは、賃金としてその都度分配されました。乗組員一人宛一人前が渡され、それとは別に、網を出しているアミシに一〇人前、船の所有者に一艘宛一人前の権利があり、さらにスラの上げ下げを頼んでいる子供達にまとめて一人前が、泳いでアゴを追い込む役の者には一合前(〇.一人前)が追加されます。それらを足した合計で、取れたアゴを割って分配したのです。分配されたアゴは各家で加工しました。
 スラ上げの子供達は、追い込む際に投げ込む石を拾って集める役割も担っていました。またアゴ網でヒウオ(シイラ)が取れた時は、それを肴にアミシの家で乗組員が晩に一杯飲むのが好例でしたか、その時ハラベ(腹身)の切り身を二~三切れ、お稲荷さんに詣って供えるのもその子供達の役目でした。その時は「突いたり引いたり朝出がけ、中魚金山(共にシイラの事)混ざり、船一艘突きもん十んばかり、サイ(イトマキエイ)四五ん枚、浦中一番の大漁をさしておくれまっせ。○○網、明日からぼっくりぼっくり」と唱えました。戻ってヒウオの刺身を御馳走して貰うのが楽しみでした。

(2001年10月)

 




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