生月学講座 No.059「アルメイダ修道士とトルレス神父」
- 2019/12/18 09:05
- カテゴリー:生月学講座
ヴィレラ神父の追放以降、平戸城下での宣教活動は禁止されたようですが、籠手田氏の領内では継続していたようです。永禄4年(1561)7月には、博多から到着したアルメイダ修道士が度島に入り、500人程の島民のうち残る8人に洗礼を授け全島民がキリシタンとなります。その後彼は船で生月島に向かいますが、島に近づいた時、彼は高地に1基の十字架と、それを囲む砦のような囲いを目にします。恐らくこれは黒瀬の辻にあった十字架と信者の墓地と思われます。生月島では当時の人口2,500人のうち800人がキリシタンだったそうです。また生月にあった教会は、野にあって美しい林に囲まれ、地所に沿って一本の川が周囲を巡るように流れており、清潔で荘厳な入口を備え、600人を収容できる規模だったそうですが、この教会がどこに所在していたかはっきりと分かっていません。またこの教会から1里(4キロ)離れた集落にも、この時に新しい教会が建てられていますが、この集落については籠手田領の舘浦や山田から4キロ離れ、また後の報告に「堺目と称するドン・アントニオ(籠手田安経)の土地」とある事から、堺目ではないかと考えられます。なお現在、堺目のかくれキリシタン信徒の家には「アルメー様」という小さな秤が残されていますが、医術に長けたアルメイダ修道士が薬を量るのに使ったのではないかと考えられ、彼の足跡を偲ぶ資料となっています。さらに彼は平戸の籠手田領の春日、獅子、飯良にも赴いて布教を行い、教会の建設を企図しています。新しい教会で必要な聖具は、この年平戸に入港した5隻のポルトガル船から供給されています。しかしこの年、平戸城下では商取引のもつれから多くのポルトガル人が殺害された宮の前事件が起きます。翌年からポルトガル船は大村領内の横瀬浦に寄港するようになってしまい、松浦隆信は貿易上、大きな打撃を受けました。
1562年、籠手田安経は妻や親戚共々も告白を受けるために、当時横瀬浦にいたトルレス神父に平戸に来て貰うようお願いしています。松浦隆信もこの訪問がポルトガル人との関係を回復するものと考え、それを希望していました。神父も聞き入れ、まず準備のためアルメイダ修道士を平戸に向かわせ、本人は12月20日の真夜中に平戸城下に到着します。クリスマスを平戸の教会で行った後、神父は生月島を訪れ32日間滞在します。この間、島にいたキリシタンは毎日朝晩2回の説教やミサに欠かさず集まり、また毎日20名以上が告白し、しまいには病などで寝たきりになっている人達まで連れて来たため、生月では10歳以上で告白をしなかった者がいなくなった程でした。さらに平戸島の春日、獅子、飯良の信者に告白のため生月に来るように告げるため、フェルナンデス修道士が遣されました。グレゴリオ暦の1月24日(永禄5年元日)、生月に1基の十字架が立てられますが、これまで日本で立ったなかで最も美しいものだったといい、千人ものキリシタンが教会から十字架までの1キロ程を行列して大いに祝ったといいます。参加者全員が花の冠を携え、数人のポルトガル人は行列の前で踊り、宣教師達は、後から聖母の画像を携え祈りや聖歌(ラウダテ)を歌いながら進みました。そして全員が十字架の場所に集まって盛大に祝い、トルレス神父の説教に耳を傾けたそうです。
(2004年3月)