長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.065「大江戸鯨太左衛門巡り」

 先年末に、捕鯨関係の会議に呼ばれて上京したのですが、若干時間の余裕ができたので、東京に残る生月鯨太左衛門関係の資料や史跡を回ってみようと思い立ちました。
 最初にうかがったのは両国国技館の中にある相撲博物館です。急な来訪にも拘わらず、女性学芸員の草野さんからいろいろ教えていただきました。資料によると生月関は、最初大坂の小野川嘉平治の弟子となり、天保一五年(一八四四)六月の大坂興業では「生月鯨吉」という名で番附に登場し、同年九月の山城八幡興行では三人掛に出場しています。その後江戸に上り、玉垣額之助の門下となりますが、江戸相撲ので番附表で生月関の名前があるのは天保一五年(一八四四)一〇月を最初に、弘化二年(一八四五)二月、同年一〇月、弘化三年(一八四六)二月、同年一〇月、弘化四年(一八四七)二月、同年一一月、弘化五年(一八四八)一月、嘉永元年(改元)一一月、嘉永二年(一八四九)二月、同年一一月、嘉永三年二月までで、合計一二場所に登場しています。また生月関は、大坂場所登場の天保一五年の時には一八歳で、番附に最後に登場した嘉永三年には二四歳(この年五月に死亡)でしたが、この六年間が角界での活躍期間だったと思われます。なお番附上の地位は一貫して西幕内張出となっており、大部分の場合付記として「土俵入仕候」とあるため、取り組みはせず土俵入りだけ行っていたようです。そのなかで唯一取り組みがあったのが弘化三年の冬場所ですが、この時は、親方である玉垣額之助が勧進元だったため、生月関にも相撲を取らせたようです。
 気になるその対戦成績ですが、初日は休場、二日目は遠ノ海戦で○、三日目は倶利伽羅戦で○、四日目は休み、五日目の対三立山戦で○、六日目の廣ノ海戦で●、七日目の対一力戦も●、八日目から一〇日目までは休場です。通しで三勝二敗五休という成績ですが、対戦相手は幕下力士だったそうです。
草野さんから深川の富岡八幡宮の境内ある巨人力士の碑の事を聞き、行ってみました。碑には歴代の巨人力士の身長が横線で表示されていて、一番上に生月関の印がありました。但しそこには七尺六寸(二メートル三〇センチ)とあり、錦絵などで確認できる背丈七尺五寸(二メートル二七センチ)より少し高めに記されています。同じ所にある足形も、かなり大きなものでした。
 最後に、生月関の墓にお詣りするため、墨田区吾妻橋の天祥寺を訪ねました。ここは平戸藩主・松浦氏の菩提寺で、生月関が松浦氏のお抱え力士であった関係から、ここに葬られたと思われます。巨漢力士の割には、高さ一㍍に満たないほどの小さなお墓で、少し意外に思いました。台石の正面に碑文があったので紹介します。なおお墓は関東大震災の時に倒壊したため移転したのだそうですが、その時に掘り出された大腿骨などが生月に分骨され、現在法善寺の山門脇にあるお墓に納められたようです。

(2002年4月)

 




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