長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.068「ガーゴ神父の布教」

 ザビエル神父が一五五二年四月一七日に中国に向かうため再度インドを発った時、ガーゴ神父、アルカソヴァ修道士、シルヴァ修道士が同行します。マラッカで中国に向かうザビエルと別れた後、彼らは中国を経て八月一四日に種子島に到着し、九月七日に豊後(現在の大分県)に入ります。当時、トルレス神父とフェルナンデス修道士が、大内氏が治める山口で布教を行っていましたが、豊後の国主・大友宗麟も自領内での布教に積極的でした。彼らは豊後と山口を行き来しながら布教の拡大に努めますが、一五五〇年にザビエルの布教が行われた後の平戸は、その頃二百人のキリシタンがいたと報告されていますが、神父も修道士もいない状態で、その訪問が渇望されていました。
 一五五五年に松浦隆信がイエズス会のインド管区長に宛てた書簡には、豊後から既に二度ほど神父が来て布教を行ったと記されていますが、アルカセバ修道士の報告には、ガーゴ神父が十五日間ほど平戸に滞在する間に三人の主要な武士を含む多くの者が信者になり、此地の領主である松浦隆信も大いにポルトガル人と親しみ、神父の来訪を喜び、平戸にカーサと呼ばれるイエズス会員の居館を建てる土地を与える事を約束し、自分の心の中はキリスト教徒みたいなものだと言ったとしています。なお一五五五年九月に書かれたガーゴ神父自らの報告によると、平戸に赴いたのは神父とフェルナンデス修道士の他、日本人キリシタンの説教師パウロが同行し、特に日本の宗教にも通じたパウロの説教が布教に大変役立ったとしており、また報告当時の平戸の信徒数は五百人に達するとしています。
 アルカセバ報告に出てくる「三人の主要な武士」については、一五五九年に書かれたガーゴ神父の報告に「この地の主要人物三人中の一人であるキリスト教徒あり。その名をドン・アントニオといい、平戸の港より二三レグワの地に三十四ヶ所の地及び小島を領す」と紹介しています。このドン・アントニオという洗礼名を持つ人物は日本名を籠手田安経といい、当時、生月島の南半分と、度島、平戸西海岸を領有しており、松浦氏の親戚筋にもあたる最有力の重臣でした。彼がキリシタンに入信した事については、江戸時代に書かれた『三光譜録』という資料に、次のような興味深い記録があります。「(前略)ハラカン(大砲)の事柄を知る人がいなかったので、ひたすらに南蛮人に太守(松浦隆信)が尋ねたところ、エキレンジャ(宣教師)が「それを知りたければ我々の宗旨になりなさい、そうでなければ教えられない」と言ったので、籠手田左衛門、一部勘解由(安経の実弟)を自分の名代としてキリシタンにした。これによってハラカンの射法が残らず伝えられた結果、日本一の火業は代々平戸へ伝わり今や第一の宝となっている」。ただこの既述については、禁教の後に書かれている事を考慮する必要はあります。しかし他の記述と併せて見ても、松浦隆信が当初、ポルトガル船との貿易や技術に重大な関心を寄せるなかで、布教の受け入れにも柔軟な姿勢を取っていた事が伺えます。
 このようにガーゴ神父は平戸、生月の布教のいわば基礎を作る働きをしました。一五五七年九月、平戸にポルトガル船が二隻入港するとヴィレラ神父が豊後から到着しますが、ガーゴ神父は入れ替わるように、博多に修道院と教会を建てるため平戸を後にしたのです。

 




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