長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.085「舘浦盆踊り考3 ー傘鉾ー」

 盆が近づいてくると、舘浦では16日の本番に向けて盆踊り(須古踊り)に関する中踊りや花杖などの練習が行われます。須古踊り系統の盆踊りは大島や度島、平戸島獅子にもありますが、舘浦のものの特徴として、以前上げたアビャゴとともに、傘鉾が出る事があげられます。他地区の須古踊りには傘鉾は存在しません。

 舘浦の盆踊りの傘鉾は、孟宗竹製の軸棒(全長約2.5㍍)の上に円形の傘(直径約1.2㍍)が付き、傘は竹で組んだ骨組に布が張ってあります。傘の上には御幣が付けられ、その根元にある花形の和紙は、傘鉾の保持者であった黒田家が、毎年一枚ずつ付け加えていたそうです。傘の下には長さ1.8㍍程の幟が四方に下がり、それぞれ「天下泰平国家安全」「祈舘浦大漁叶」「祈舘浦家運長久」「祈悪病消滅退散」という文句が書かれています。また傘の下には別に巻物と袱紗が下げてあり、巻物は黒田家から、袱紗は墨屋家から出ますが、その中身は見てはならないと言われています。なお墨屋家では、身内に不幸があると比売神社で袱紗のお祓いをしているそうです。

 傘鉾は、盆踊りの行列の後ろの方に付いていきます。傘鉾を担ぐのは「傘鉾持ち」という役の人で、「号声(ゴウセイ)」という浦の触役が務めました。また付き添いに傘鉾付きいう役が2名居り、昔は家大工が務めました。役踊りが行われている間、傘鉾は傍らに控えていますが、今は踊りの間に傘鉾を回す事も行われます。また傘鉾の下を住民がくぐる事も行われ、病気をしないと言われます。しかし昔は、傘鉾の下に入るのは畏れ多い事とされ滅多に入れなかったそうで、区長や組合長しか入れなかったとも言われます。

 傘鉾は、一般的には秋の例大祭(おくんち)の神幸行列で良く見られる作りものでした。傘鉾が出る行事の代表格として「長崎くんち」がありますが、既に18世紀初頭には傘鉾が存在しており、当時既に笠の上部に手の込んだ作り物を載せ、周囲の幕にも刺繍やビロード地など華美なものを用いていた事が絵図から分かります。「平戸年中行事絵巻」にも、江戸時代の平戸城下のくんち行列の中に華美な傘鉾が確認でき、長崎からの文化伝播だと考えられます。傘鉾の起源については、被り物である衣笠の装飾が華美になっていったものという説がありますが、鉾という名称は古代の武器を指し、かつ日本では鉾は弥生時代から神霊を神霊を依り付かせる「依り代(よりしろ)」の役割を果たしていた事から、傘鉾も本来は巡幸の際の神の乗り物であったとも考えられます。長崎くんちでは、その役割を神輿が担う事となったため、傘鉾が本来の目的を外れ装飾化していったとも考えられますが、はっきりとした事は分かっていません。

 舘浦の盆踊りの傘鉾は、頂部に御幣を付け、傘の下にも御神体的なものを吊り下げ、下をくぐると病気にならない等、依り代的な要素が認められます。伝承では、傘鉾は元々、平戸藩主がキリシタンの教えを捨てさせるため舘浦の住民に須古踊りを始めさせた際、炭屋家(現・黒田家)に藩主から下賜されたものだそうです。しかし同家には昔から受胎告知をモチーフとしたキリシタンのお掛け絵が祀られている事から、実は舘浦の盆踊りは、キリシタンの神霊を奉じた巡幸祭礼だった可能性もあるのです。

 




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