長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.089「港市「平戸」と生月」

 (平成22年)11月7日、平戸文化センターで「平戸-海外に開かれた自由な港市」というシンポジウムが、平戸市教委などの主催で開催されました。「城下町」というイメージで紹介される事が多い平戸ですが、海外貿易の場である「港市」としての歴史の方が遙かに古く、特に16~17世紀初頭にかけての時代には、中国、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなど各国の商船・商人が多数来航し、「西の京」と形容される程の活況を呈しました。平戸が第一義的には「港市」である事は、町のあり方にも明確に現れています。普通の近世の城下町は、中心に藩主の居城があり、城の周囲に家臣団の屋敷が置かれ、その外側に町人の街が広がっています。しかし平戸の中心は港とその周囲に展開する町人の町(港町)であり、藩主の居館(御館)は町の周囲の斜面地に置かれ、家臣の屋敷は斜面の上の丘陵地に設けられています。日の岳城の立地も港を見下ろす半島の上ですが、東側は平戸瀬戸にも面していて、港と平戸瀬戸の掌握を意図した占地になっている事が分かります。

 シンポジウムでは、海外交渉史、貿易経済、宗教などで平戸に関する研究を行う第一線の先生方が短い発表とディスカッションを行いましたが、それに先立ち、地元の学芸員や文化財担当者が様々な分野の報告を行いました。私(中園)は報告者として「平戸のキリシタン」について報告しましたが、その中で、平戸松浦氏は港市である平戸を主な経済基盤として成立、発展した経緯から平戸に本拠を置かざるを得ず、それ故〔港市の支配者〕と〔領国の支配者〕という二つの側面を持たねばならなかった事。港市に到来する外国商人(商船)は、その生命・財産、信仰の自由を認めるという不文律があり、平戸ではそれに従ってキリシタンの個別布教が認められたが、永禄元年(1558)と同8年(1665)、生月島を含む港市後背地の領国内で他宗排斥を伴う一斉改宗が行われると、平戸松浦氏にとってキリシタンは領国秩序の脅威となり、〔領国の支配者〕としての側面に則り、キリシタンの抑圧を行わざるを得なかったのではないかと報告しました。

 シンポジウムの中で東京大学の羽田正教授は、イスラム港市における通訳の役割に言及した上で、長崎においてもオランダ通詞が重要な役割を果たしたと述べました。この対外貿易における仲介者の重要性については、パネラーである聖徳大学の安野眞幸教授も『港市論』の中で、港市平戸のポルトガル貿易において、宣教師とキリシタン達が仲介者の役割を果たした事について触れておられます。例えばフロイス神父は、永禄7年(1564)に、ポルトガル関係船3隻の平戸入港に際して松浦隆信と交渉し、入港と引き替えに平戸での布教の自由と教会(天門寺)の建設を認めさせています。ちなみに同神父の1564年10月3日の書簡には、平戸で大火が起こった際に、籠手田安経の家や教会、家財を納めた蔵も焼失したという記述があります。籠手田氏の領地は生月島南部、度島、平戸島西岸でしたが、領地内とは別に平戸にも屋敷を持ち、蔵も持っていた訳で、彼や一部氏が、キリシタンやポルトガル人の庇護者であるとともに、貿易仲介者としての側面も持っていた事を暗示しているのかも知れません。

 




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