長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.090「エトロフ島に出向いた益冨組の羽指」

 江戸時代、現在の北海道は「蝦夷地」と呼ばれ、南部の渡鹿半島の一部は松前藩によって統治されていましたが、その他の地域はアイヌ民族が暮らす土地(アイヌ・モシリ)でした。松前藩は蝦夷地でアイヌを使役しながら、肥料としての需要が多い鰊の漁などを行っていましたが、現在「北方領土」と呼ばれる千島列島では、18世紀頃までは南部の国後島などで漁業が行われる程度でした。

 寛政11年(1799)1月、江戸幕府は、南下するロシアに対する防備を固めるため、東蝦夷地を松前藩から召し上げて直轄地とした上で、千島列島の択捉(エトロフ)島の開発に着手します。この事業を請け負ったのが、司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』の主人公にもなった、神戸を本拠とする北前船の海商・高田屋嘉兵衛でした。択捉島の開発の中心になったのは鰊漁でしたが、同島の沿海に多く回遊する鯨も注目され、幕府は同地での捕鯨の可能性についての調査を行う事にしました。

 寛政11年12月、幕府の蝦夷地用掛・松平信濃守らが、平戸藩留守居に対し、捕鯨に巧みな者2名を蝦夷地に派遣するよう依頼します。これを受けて平戸藩は、藩士の山縣二之助(もと四代目益冨又左衛門正真)に益冨組の羽指(ハザシ=鯨船の指揮や銛打ち、鼻切を行う役職)からの選出を命じ、大島的山浦出身の羽指・寅太夫(58歳)と安兵衛(36歳)が選ばれます。

 「御用伺手控」によると、二人は寛政12年(1800)2月12日に平戸を船で発ち、同月19日に下関に到着します。そこで神戸を出港し瀬戸内海を西進してきた高田屋嘉兵衛の持船・辰悦丸に乗り込み(3月6日)、日本海(北前航路)を一気に北上して28日には幕府の北海道開発の本拠地だった箱(函)館に着きます。そして4月27日には箱館を出港、閏4月4日に国後島に、同月24日に択捉島トリカマエに到着します。二人は島の沿岸をアイヌの小船で巡りますが、5月21日に到着したタンネモイで沢山の鯨を目にし、6月15日まで同地で観察を続けます。その後、7月7日に択捉島を発って帰路につき、太平洋を南下して9月17日に江戸に到着しています。   

 江戸で二人は、先に到着していた山縣二之助と合流し、蝦夷御用の役人から、捕鯨の方法や蝦夷地の鯨漁場の状況について質問を受けます。二人は、択捉島ではソエという鯨の餌になる魚が岸近くに寄っているため、西海で標準とされる三結組編成の網組を操業させれば、あるいは2~30頭の鯨の捕獲は可能かも知れない。しかし価値が高い背美鯨はおらず座頭鯨ばかりで、また僻遠の地のため、鯨組の準備に大変苦労するだろうと意見を述べています。幕府は、こうした意見を検討した結果、鯨組の準備に莫大な出費がかかる事が懸念されたため、最終的に蝦夷地での捕鯨事業を断念しています。

 両名は懸かり奉行から30両の手当を貰い、10月15日に平戸への帰還の途につきます。平戸に帰着した後も平戸藩に呼び出され、役人達の前で蝦夷地の様子を語っています。その際、困難な調査や江戸での報告を立派に務めた事を賞され、代々町人の身分と銀三百目を褒美として頂戴しています。的山大島的山浦の坂元家には、この調査に関する文書が今も大切に残されています。

 




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