生月学講座 No.093「鯨組の納屋場」
- 2019/12/18 09:35
- カテゴリー:生月学講座
享保14年(1729)から明治30年代にかけて、生月島の御崎浦には鯨組の納屋場が設けられていました。西海漁場の納屋場は鯨の解体・加工を主な目的とした施設です。海岸には海に向かって二本の突堤が突き出し、その間の渚が鯨を解体する捌場となっていました。捌場を囲むように設けられた石垣の上には、鯨の引き上げや解体に用いるロクロ(轆轤)という人力ウインチが多く設置され、捌場から階段で石垣の上にのぼれるようになっていました。因みに紀州や土佐の鯨組では、広い浜辺にロクロ(轆轤)を置き、鯨を浜辺に引き上げて解体しており、突堤や石垣などの施設はありませんでした。
捌場背後の石垣の上には、大納屋、小納屋、骨納屋などの加工施設が建てられていました。例えば大納屋は間口(建物正面の幅)7間(約13㍍)、奥行き24間半(約44㍍)の長大な建物で、前半分が瓦屋根の恒久的な建物になっていて、後ろ半分は捕鯨シーズン中(冬~春)だけ組み立てて、シーズンオフには解体していました。小納屋や骨納屋は少し規模は小さいですが同様の構造でした。大納屋は主に皮脂肉を用いた鯨油と、赤身その他を塩漬にした食用鯨肉の製造を行います。小納屋は主に、骨に付いた肉を取る事と、内臓を用いた採油・食用加工を行います。骨納屋は、骨を用いた鯨油と骨粕の製造を行います。このように鯨油の製造が大きな割合を占めているため、竈と釜の設備が不可欠でしたが、御崎浦の納屋場には、大納屋に17基、小納屋に7基、骨納屋に6基もの竈がありました。多数の竈を使うため薪も大量に(150万斤)必要で、大納屋横の空き地に貯蔵されていました。他に加工や製品を収納する施設として、筋納屋、赤身納屋、尾羽毛蔵、新筋蔵、油壺場、塩蔵、油貯小倉、油貯六間倉、荒物貯八間倉などがあり、また捌場の突堤上には鯨組の経理や事務を行う勘定納屋が、突堤の付け根には網納屋がありました。
三納屋の南側にある広場とそれを囲む建物群は、前作事場と呼ばれる、捕鯨資材の保管や新造・修理を行う施設です。広場は、鯨組の船を曳き上げて保管する場所で、周囲の建物は、櫓や船具、綱の材料(苧)などを収納する倉と、船大工、鍛冶屋、網大工、樽屋などの作業場(納屋)から成ります。広場の南側には、各鯨船の指揮を取り、銛や剣を投げ、包丁で鼻を切る役目の羽指(ハザシ)33人の宿舎である羽指納屋と、櫓の漕ぎ手である加子440人の宿舎の加子納屋がありました。
北側の山の斜面には、稲荷様の祠と恵美須様の像が祀られていて、鯨組の関係者がお詣りしました。捕獲した母鯨の胎内に子鯨がいる場合には、恵美須様の元に埋葬していました。この祠と像は現在も残っています(恵美須像は白山神社に合祀)。
御崎浦の南隣にある古賀江浦には網干場が置かれていました。ここには縦横60㌢前後の平石を敷き詰めて、濡れた鯨網を引き上げて乾かしました。
納屋場の裏から山麓に沿って西に行くと、よそから来た鯨組関係者が葬られた墓地がありました。ここからは、網を扱うために備後(広島県)田島から来た人の墓石も見つかっています。このように西海の鯨組の納屋場は、鯨の解体・加工だけでなく、道具の製作や修理、人員の宿所などの機能も併せ持った総合的な施設だったのです。