長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.097「須古踊りの起源」

 生月島舘浦に継承されている盆踊りの中心は、着物姿の男性が笠を被り、円形に並びゆっくりと踊る「須古踊り」です。平戸市内には舘浦の他、的山大島の的山と神浦(西神浦と東神浦が一年交代で踊る)、度島の浦、中部、三免(飯盛)、平戸島の獅子に伝わっており、また生月島の里免でもかつては行われていたそうです。踊る目的には、寺社や公共施設、役職宅で踊る役踊りと、個人宅などで踊るカイニワがありますが、舘浦は役踊りと家内安全のためのカイニワ、大島では役踊りと新霊供養を目的としたカイニワ、度島では役踊りのみ、獅子と生月島里免では雨乞いのために踊られます。須古踊りの起源は念仏踊りと考えられていますが、踊る目的が様々な事から、平戸地方では本来の念仏の布教に伴う踊りではなく、信仰を伴わない芸能化した段階で広まったと思われます。

 須古踊りは、伝承では佐賀県白石町の須古地区が発祥の地とされています。この地にあった須古城(城主・平井氏)が天正8年(1574)佐賀を本拠とする戦国大名・龍造寺隆信の軍勢に攻められて落城した際、落ちのびた家来が踊りを伝えたとされます。なお大村市にも須古踊りが伝わっていますが、『郷村記』には、文明12年(1481)大村純伊が大村に帰還した際に肥前須古の者が来て踊りを教えたとあり、須古落城以前から、須古踊りが各地に伝わっていた事も考えられます。但し大村領では1570年代に一斉改宗でキリシタンが広まっており、須古踊りがキリシタン時代にも継承されていたのかという疑問はあります。平戸地域の須古踊りについては、的山の本山神社に残る延享2年(1745)の文書に、「的山踊始メ其後ニ神野浦(神浦)在浦おどり申候只今ニ至」という記述があり、遅くとも18世紀中頃には踊られていた事が分かります。

 須古踊りの普及時期を考える上で、平戸地方の芸能分布は示唆に富んでいます。平戸地方のもう一つの代表的な盆芸能であるジャンガラについては、『セーリス日本渡航記』1613年8月23日の項に、「舞踊隊の三隊が旗を持って(平戸)市中を上下した。彼らの音楽は太鼓と鑵鼓で、その音に合わせて偉い人の家の戸口ごとに踊る。また塔や墓の所でもみな踊る」とあり、江戸時代の初めには行われ、こちらも起源は念仏踊りですが、既に芸能化していた事も分かります。ジャンガラは的山大島の大根坂と、平戸島の平戸、中野、宝亀、紐差、根獅子、中津良、津吉、大志々伎、野子で行われ、根獅子を除けばキリシタン信仰が定着した旧籠手田・一部領以外に分布しています。この事はジャンガラが、キリシタン信仰がいまだ強い影響を持っていた時代に普及した事を示しています。唯一の例外は平戸島中部西岸の根獅子ですが、ここのジャンガラの笠の花が華美である事などを考えると、遅く伝わった可能性は否定できません。

 一方、須古踊りは、的山大島を除けば、旧籠手田・一部領の中に分布していますが、この事は、キリシタン信仰が表立って力を持たなくなった18世紀以降に須古踊りが普及した事を示しています。舘浦須古踊りの起源伝承でも、本来キリシタン信仰を棄てさせる目的で平戸藩主が導入したとしています。恐らくは、ジャンガラが無かった地域に須古踊りが導入されていったのでしょう。

 




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