生月学講座 :生月島の牛 ①牛牧
- 2019/12/18 09:38
- カテゴリー:生月学講座
生月学講座:生月島の牛 ①牛牧
現在の生月島においては、肥育用牛の子牛の生産が盛んですが、かつては田畑の耕作や荷物の運搬に用いる使役牛として重要な役割を果たしていました。明治16年(1883)の『長崎県地誌』には、生月村に牡牛113頭、牝牛367頭の計480頭、山田村に牡牛37頭、牝牛128頭の計165頭がいたという記載があります。また同資料の物産に上がっている子牛の頭数も、生月村で756頭、山田村で260頭に上っていて、子牛の生産が農家の貴重な収入となっている事が分かります。
大正7年(1918)の『生月村郷土誌』には、島内の牧畜業について次のような記述があります。「 本村ノ牧畜業トシテハ、特設セラレルモノナシ。過グル往昔ハ御崎ノ原野ニ牧場ヲ設ケ、馬ノ養牧ヲナシタルコトモアリテ、名馬池月号ヲ産出シタルコトサヘアリト云フ。現今ハ馬ヲ飼養スルモノ一人モナク、只使役用ノタメ牛ノミヲ各農家ニ一頭乃至四五頭ヲ飼フ位ナリ。自然牧場トシテ御崎、上場、山頭、赤木畑(南免)等ノ適切ナル共有地アルモ、只農閑之期ニ放牧シ置クノミニテ、牧場トスルニ足ラズ。併シ近年産牛馬組合等組織セラレ、且ツ其筋ノ指導奨励等ニヨリ、各自飼牛ノ大切ト利益トヲ感ジ、飼養法硝々向上シツヽアルハ喜ブベキ現象ナリ。品種ノ改良モ漸次普及セラレ、近キ将来ニ於テ丹波牛、朝鮮雑種等ノ良種ニ改良実現セラルベシ。」このように大正期には、生月島の農家に牛は最低1頭、多い場合は4~5頭の使役牛がいて、農閑期には島内各所にある共有地の牧野に放牧していた事が分かります。
生月島の育牛にとり、牧野は重要な役割を果たしてきました。御崎はミンチマや鞍馬、たかり、壱部は五ケ触持ちである拝野の他、方倉やオロンクチに共同所有の牧野があり、堺目は、五カ触持ちである拝野や二カ触持ちの番岳や上場、ハンジロ、元触は五カ触持ちの拝野や二カ触持ちの番岳や上場、山頭、山田は山頭、赤木畑、桜越、ヤサンベ、潮見などを放牧場として用いました。牧野の周りには石垣が巡らしてあり、牛が山に迷い込んだり、崖から落ちるのを防ぎました。放牧地の管理は、そこに牛を放つ権利を持った者で構成された牧野組合が行いました。牧野組合は、放牧地の管理に必要なお金を加入者から徴収し、組合員が初春に野焼きを行って若い牧草を生やし、旧3月3日の節句に「薊掘り」といって、牛が嫌う薊を掘り取りました。放牧地の他に個人所有の採草地があり、春から初夏にかけてはここに牛を放ち、それ以降は放牧地に移して草を伸ばし、秋に刈り取って冬場の餌にしました。
放牧を行っている期間には、朝、牛を放牧地に追っていって、夕方に放牧地から家に追って戻しました。牛を追っていくのは学校に行く前の子供の仕事で、夏休みには、牛を追っていった後、仲間と最寄りの海などで日没まで遊んでいましたが、その間に牛が迷子になり、叱られる事もしばしばでした。集落から放牧地まで牛を追っていく道が牛道で、昔の道は三尺幅程度で、斜面は石段になっていました。道の途中には、牛が水を飲む水場が設けられていました。
生月島では、本来なら水源の涵養のため森にしているような山頂部を、牧野として利用していました。それ程牛が重要だったのです。
(2011年11月 中園成生)









