長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.100「昔の牛飼い」

 今回は元触地区で伺った昔の牛の飼い方について紹介します。昔は農家一軒で1~2頭の雌牛(ウノ)を飼っていました。牛を飼うウシマヤは屋敷地の中にあり、三方を石垣で巡らし、その上に藁屋根を載せていました。雌牛は繁殖して子牛が収入になったし、農作業でも扱いやすかったからです。昔は生まれて3~4カ月の子牛を売りました。長く育てると情が移って迷ったりするのが面倒だからですが、戦前にはそれでは早すぎるという事で、6カ月以上飼うようになりました。現在の農協駐車場の所に、三月市・五月市など、年間3回程牛市が立ち、バクリュウが買いに来ていました。雄(コッテ)は性格が荒く使いにくかったので、生月島では使いませんでした。戦後直ぐの頃には雄の子牛が500円にしかならず、鶏よりも安いこともありました。ただ繁殖用の種牛(雄)を各部落1頭飼っていて、個人に飼育を委託し、種付け料を払って交尾させていました。

 田植え上がりの牛は、放牧地に放して芽立った若草を食べさせました。島内には山頭、上場、番岳、拝野(御崎の七曲がり)などフレモチ(共有)の広大な放牧場があり、山頭は山田、上場と番岳は元触・堺目の二カ触持ち、拝野は元触・堺目・御崎と壱部の森・岳崎の五カ触持ちでした。但し山頭は、放牧地を通った先に土地を持つ元触の人も放牧の権利を持っていました。上場の牧草地では、もともと緩やかな管理が行われていましたが、終戦になってフレ(触)で管理するようになりました。放牧場は部落で牛を持っていると誰でも使用する権利がありましたが、戦後食料不足のため放牧場の中に畑を開いたりした事でややこしくなり、今は、各牧野が合併した牧野組合を結成して管理にあたっています。なお分家は牧野組合の構成員になれませんでした。

 壱部、堺目、元触では牛は朝、放牧地に出して、夕方家に連れて帰りました。帰る時には幸四郎池で水を飲ませましたが、暑い時には牛が自分から水に入りました。しかし山田では山頭に放しっぱなしにしていました。秋になって草も枯れると、牛達は勝手に放牧地を出てあちこちさ迷う事もあり、他集落に降りて勝手に草を食べ、その集落の者に見つかってその場に繋がれ、場合によっては金を請求されたりもしました。そのため秋になると、牛を家につれて帰るようになり、秋の稲刈・麦蒔きが終わって田起こしが始まるまでの間、後目(島の西側)にある個人持ちの原野に昼間は放していました。これらの原野は冬に食べさせる草を刈るための場所で、刈った後の残り草を食べさせました。家に居るとモーモーうるさいので、連れ出していたそうです。

 家で食べさせるハミは稲藁や枯草で、これに醤油を絞った粕や、売り物にならない小さい薩摩芋を混ぜて煮て作った「牛の味噌」を混ぜました。農耕に使う時期には麦をほとびかせたものや、農協から買った堅く固めた豆粕を削って食べさせ、力を付けました。

 牛の蹄はだいたい放っておいて、時たま削蹄しましたが、田植前に部落でまとめて削蹄することもありました。牛の病気を診る牛医者がいました。牛の病が流行った時は、自分の部落に入ってこないように部落の境目数カ所に、道をせきるようにお寺の和尚さんに貰った注連縄を張りました。これは人間の病が流行した時にもやっていたそうです。

 




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