長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.103「かくれキリシタンとは何か?」

 かくれキリシタンが、生月島を代表する独自の信仰文化である事は、今更断る必要が無い程ですが、ならば「かくれキリシタンとは一体何」という素朴な疑問に対して、実はこれまで納得行く答えが出せていませんでした。よく言われるのは、戦国時代にヨーロッパから伝わって日本人に広まったキリシタン信仰(カトリック)が、禁教時代に入って宣教師の指導が無くなり、他の宗教の影響を受けて大きく変容した結果、かくれキリシタン信仰が成立したという説です。この禁教期変容説の前提になるのは、戦国時代のキリシタン信仰の段階は、ヨーロッパのキリスト教に近い純粋な姿だったという事です。当時、日本に居た宣教師達が書き残した書簡にも、信者達がヨーロッパのキリスト教徒と同様に、教会のミサや鞭打ち苦行、聖劇なとを行っていた事が紹介されています。

 しかしそうした書簡の中からは、聖書の教義とは直接結びつかない様々な習俗も同時に行われていた事が窺えます。フロイスの『日本史』第1部21章には、紙に描いた十字架を壁に貼って安産を祈願した話が出てきます。また『日本史』第1部111章には、十字架の木片の灰を混ぜた水を飲ませて、米盗人を見つけだした話も出てきます。このように当時のキリシタン信仰では、教会で行われるミサなど他に、迷信めいた事もいろいろ行われていたようですが、その内容は必ずしもヨーロッパ由来ではなく、日本の他宗教でも見られるようなものでした。1560年12月1日付のGフェルナンデス修道士書簡には、聖水を飲んで病気を治した話が出てきますが、こんにちのかくれキリシタン信仰の中でも、聖水は、振りかけたり飲む事で病を治す力があるとされ、キリシタン信仰が起源になっている事が分かります。

 生月島のかくれキリシタンの行事では、オラショ(祈り)は声を出して唱え、中には唄オラショといい歌うものまであります。禁教時代にも声を出していたのは不自然だと考えられ、かつては変容の所産とか、捕鯨のおかげでお目こぼしがあったからだとか言われていました。また組で行われる年中行事の中に「野祓い」や「お水取り」など、戸外で行われる行事が多い事も生月・平戸系かくれ信仰の特徴ですが、長崎市北郊、外海地方のかくれキリシタン信仰では、組の年中行事(3つ程)は全て屋内で行われています。

 これらの事を検討していくと、生月・平戸のかくれキリシタン信仰は、16世紀後半期、まだ信仰が禁止されていなかった頃の信仰の内容が、そのまま行われていると解釈するのが、いちばん納得がいくようです。それに対して外海のかくれキリシタン信仰は、17世紀前期、禁教が始まった時分に、これまで教会で所管して宣教師が信者に教示していたカトリックの教義を、信者が組で独自に維持していけるよう整えられた信仰のスタイルが、継承されたもののようです。例えば外海のかくれ信仰では「お帳」「バスチャン暦」という暦を用いて年間の祭日を確認していますが、それは1634年の教会暦の内容である事が分かっています。オラショで声を出さないのも、禁教に対応した形ゆえでしょう。

 これまで禁教期の大きな変容の所産と考えられてきた生月島のかくれキリシタン信仰は、実は古い時期の信仰スタイルに由来するものなのです。

 




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