長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.106「タキモンの話」

 多くの島では、高所の山地は森林に覆われていますが、生月島の場合、高所には各地に広い牧野が営まれています。また耕地にも利用され、現在は林に戻っている斜面地にも、かつてはかなりの高所まで畑が造成されていた事が、石垣などの痕跡から窺えます。それならば、生活に必要な薪はどのように確保していたのでしょうか。

 イナカ(在部・農村部)の古老によると、イナカではタキモン(薪)や家建ての材木は各家の持ち山で自給できたそうで、枯枝やタキツケ(火を起こす時に使う燃料)に使う松葉を取る他、伐採する事もありました。なお大正7年(1918)の『生月村郷土誌』には、松葉の採集について、「山のクチアケ」という習わしがあった事を紹介しています。

 「本島は概して森林少く、木材は固より薪に乏しく、山田(※舘浦の事か)一部の両浦の薪炭は全部平戸島より移入するものにして、わけて一部浦の住民はたきつけにさへ不自由を感ずること常なり。されば漁ある時は、安価又は無代価にて在部の者に魚を供給し、一年に数回、一部在方の山に入りて、たきつけを取るてふ交換的遺風あり。
冬季に入り、松葉の多く落つる頃、在方にては、自家用の松葉を採集して後、在方一同話合の上、期日を定め、山の解放をなし、之を浦に通知す。通知あれば浦人はその日の未明より起きて山に入り、成可多くの松葉を集め来りて、一年中のたきつけとして保存するなり、此の日即ち山の口開きと云ふ」。

 この文章から、山を持たないウラ(浦)では、薪の供給を島外に仰ぎ、タキツケ用の松葉を取るために、冬場に数回、自由に山に入っていい日が設定された事が分かります。

 舘浦では、タキモンは家用だけでなく、まき網船の炊事用に大量に必要とされていましたが、夏から秋にかけて、平戸島の西岸、北は主師から南は猪渡谷にかけての地域(下方)から、テント船で運ばれてきました。舘浦で薪や炭を一手に商っていた黒田さん(屋号キドンヤ)の話では、当初はカケギという長さ1.5㍍程の丸太の形で納入されていたそうです。カケギは委託販売で、浜で計量して単価を掛けて販売代金を出すと、8%を口銭としてキドンヤに納めました。売り手(下方の人)は代金を受け取ると、キドンヤの板の間で一杯やって帰るのが常でした。カケギを購入した家ではタキモンワリさんを雇い、4~8等分、長さ30㌢程のサイズに割って貰いました。昭和30年代には、売り手の方で割って束ねたタバギが持ち込まれ、キドンヤがそれを購入・販売する形になりました。

 かつて捕鯨が行われていた頃には、鯨の各部位から鯨油を製造するため、御崎の納屋場だけで1漁期(冬~春)に150万斤もの薪が消費されていた事が、『勇魚取絵詞』にも紹介されています。相当量の薪が近隣地域から供給されたと思われ、薪の売り買いもこの地方の経済にとって大きなものだった事が想像されます。しかし昭和初期には、ニキリ(縫切)網やまき網で取った鰯の製造(イリコ、魚油、絞滓)には、石炭が使われるようになっていました。石炭の利用は既に江戸時代に始まっていて、瀬戸内海の塩田では濃縮された塩水を焚くのに使われました。昭和初期の舘浦では石炭もキドンヤが取り扱い、江迎の麓炭坑から機帆船で運ばれた石炭が、各製造納屋に配達されていたそうです。

 




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