長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.107「勢子船」

 『鯨舩萬覚帳』には、17世紀中頃に用いられていた鯨船には、熊野造りと兵庫造りの2種があることが記されていますが、同史料によると、兵庫造りのカワラ(船底材)は長さ四尋三尺一~三寸(約8.1㍍)、トモガワラ(船尾の船底材)は長さ九尺三寸(約2.7㍍)、船の肩(幅)は六尺七寸(約2㍍)とあります。一方、熊野造りの方はカワラ(船底材)が一尺短く(約7.8㍍)、船上の長さで四寸程短いとしています。網掛突取法の導入後、熊野造りは紀州や土佐の勢子船に、兵庫造りは西海の勢子船に継承されたと考えられ、各地の勢子船の図や模型を比較すると、兵庫造りの方がミヨシがやや立ち(反対に熊野造りは船首が尖った印象となる)、船幅も兵庫造りの方が若干幅がありました。ミヨシが立っているという事はその分波切りが良く、広い船幅も波に対する安定に役立ったと考えられるので、波浪が厳しい冬の西海を想定した改良だったと思われます。

 『西海鯨鯢記』には鯨船の航行性能について、次のように記されています。「早ク行事一昼夜ニ百里。往年紀州ノ住人喜多嶋庄右衛門ト云者、五嶋ノ大寶ヨリ紀州和歌山、舟水夫ヲ撰テ飛舩ヲ遺、三百六拾里程ノ海路ヲ一七日往還ス」。この記事によると、鯨船は1日に百里(400㌔)進む性能を持つとされ、喜多嶋庄右衛門の船は五島南端の大宝から紀州和歌山まで360里余りを17日で往還しています。試しにこの旅程から1日の航行距離を割り出すと1日21里(90㌔)進んだ事になり、仮に10時間航海したとすると、平均5ノットで進んだ事になりますが、実際には、到着地での休息や、途中の潮待ちや避泊もあったと思われるため、スピードはもっと出ていたと思われます。もし最初の1日百里を単純に1時間の航行距離を24時間行った形のカタログデータだとすると、1時間17㌔(9ノット)となり、それくらいが最高速度なのかも知れません。

 西海漁場では、網掛突取法の導入(1678年)以降になると、紀州系漁民の出稼ぎが無くなっていった事もあってか、兵庫造りの勢子船が主流になっていたと考えられます。『鯨史稿』には、兵庫の淡路屋惣右衛門・淡路屋与兵衛が諸国の鯨船を作るという記述がありますが、呼子の生島仁左衛門が制作した『鯨魚覧笑録』にも「兵庫にて仕立てる」とあります。『鯨魚覧笑録』の造船の場面にも、船材を組立て塗料を塗る場面は出てきますが、船板を作る場面は無い事から、兵庫から勢子船の形成された材料を買ってきて、捕鯨漁場で地元の船大工が組み立てる方法が取られたようです。

 塗装といえば、紀州や土佐の捕鯨図説に登場する勢子船は、船腹に花をあしらった華麗な装飾を施していますが、西海の場合は、小川島も、生月島も、せいぜいミヨシ(船首)と船腹の一番上のゴシャクを黒く塗り、菱形文様を入れる程度の簡素なものでした。こうした塗装の傾向は、両地方の鯨組の組織の性格が反映しているようです。紀州の鯨組は村落共同体的組織で、地元の者が乗り組み、各船の装飾には組内(村落)の位階が反映されていました。一方、西海の鯨組は組主(経営者)が経営する営利企業の性格が強く、各地から雇われた者が乗り組んでいましたが、成績の善し悪しで賃金も変わりました。船に塗装を施す絵の具や絵師の賃金も、不要な経費と判断されたのでしょう。

 




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