長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.110「網の素材と鯨網」

 生月島では今も、遠洋まき網や落網(定置網)、アゴ二艘船曳網など、網を用いた漁業が盛んに行われています。網の素材には化学繊維が用いられていますが、水に長く浸かっても腐る事がないため、定期的に付着物を取り除く程度の管理で済みます。以前は綿糸が網の素材として使われましたが、湿ったままだと腐りやすいため、使用前にカッチやコールタールで染めて腐りにくくした上で、頻繁に干す必要がありました。

 綿糸の使用以前は、麻に近い種類の「苧」という植物の繊維が網に使われました。苧以前には藁の縄が使われていて、海中に固定している定置網には今でも使われている所がありますが、濡れると嵩張って重たくなるため、張り回したり引き上げる事を頻繁に行うような網漁には不向きでした。それゆえ網素材としての苧の導入は画期的で、江戸時代以降、様々な網漁が発展するのは、苧の利用があって初めて可能だったのです。

 西海の漁業への苧の導入は、捕鯨が契機になったと考えられます。西海で捕鯨が本格的に始まるのは江戸時代初頭の事で、当初行われた漁法は、銛と剣で鯨を突く突取法でした。突取法では最初、銛で鯨を突いて船と綱で結び、鯨に船を曳かせる事で疲労させますが、鯨が曳く強烈な力に銛綱が耐えきれずに切れてしまうと漁は成り立ちません。充分な強度を持つ苧綱の導入があったからこそ、捕鯨が可能となったのです。西海で突取捕鯨を始めたのは紀州(和歌山県)の突組なので、苧綱の導入も同地方からだと推測されます。

 捕鯨で網が用いられるようになるのは、延宝7年(1675)紀州太地の太地角右衛門が始めてからです。最初は藁綱でしたが上手くいかず、苧網を導入した事でこの年に成功しています。鯨網を用いた網掛突取法は、以前の突取法と比較にならない高い効率を上げたため、翌年には西海でも五島有川湾などに導入されています。この漁法は、かつては良く「網取式捕鯨」と呼ばれましたが、実際には鯨を網に絡めて取るのではなく、鯨を網に絡めて泳ぎを遅くし、後の銛突を容易にするのが目的でした。

 西海の標準的な網組の鯨網は、2艘の双海船(網船)に搭載された一結(1組)が1反の網を38反連ねて構成され、全長は1キロを越えました。網組1組はそれが三結(双海船6艘)から成り、1反の網は18尋(32メートル)四方、網の目の大きさは80㌢程もありました。漁の際は、まず鯨の進行方向に一結の網を弓なりに張り、その後方に二結の網を左右にずらして張りました。そのため鯨が中央部を進んだ時には、最大三重ねの網を被る事となり、確実に鯨の行き足を止める事が出来ました。但し一反の鯨網は、左右の網とは細い藁縄で結び付けられているだけなので、鯨が突入すると正面の網だけが外れるようになっていました。そうすることで、鯨が被っていない網は破損する事無く直ちに回収され、繋げ直す事ですぐに漁を再開する事ができたのです。また網の底の方にはわざと古い網を付けて、例え海底に引っかかっても破れて取れやすくしていました。

 『勇魚取絵詞』によると、益冨・御崎組(三結組)が一漁期(冬~春)に用いた苧の総量は一万六千斤にのぼり、そのうち一万三千斤を縄に、三千斤を網に用いました。原料の苧は九州南部の球磨地方などから調達されています。

 




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