生月学講座 No.120「鯨銛考」
- 2019/12/18 10:03
- カテゴリー:生月学講座
鯨銛については、平成14年11月の「生月学講座」で、行幸啓に際して萬銛を復元した際の事を紹介したことがあります。今年の7月15日に開催された舘浦競漕船(セリブネ)大会では、開会当初のイベントとして老人会の皆さんが漕ぐテント船から銛を投げる模擬突取をおこなう事になったため、それに用いる萬銛2本を復元しました。銛先は舘浦の吉永鍛冶屋さんに依頼しましたが、僅かな時間で立派な銛先を作っていただきました。それを柄として建材店で買った丸物の棒(径5センチ、長さ1.8メートル)にボルトで取り付け、『勇魚取絵詞』の図を参考に銛綱を付けました。実際の萬銛は、柄にマテ樫の丸木を用い長さも若干長く(2.4メートル程)、銛先の取り付けには釘を用いました。また銛綱は、鯨を曳く必要がないため細め(直径5ミリ程)のロープを使いました。
本番前に銛の試射をしてみましたが、西海漁場系の捕鯨図や聞き取りで確認されている通り、上向き45度位の角度で投射すると、放物線を描き7㍍ほど離れた海面に銛先を真下にして落ちました。何度か投げてみて、こうした投げ上げ投射の場合には、闇雲に遠くまで投げる事に努めるのではなく、銛を投げるフォームを身体に覚え込ませた上で、船と鯨の間の距離を目測で把握し、どれくらいの力で投げればどの距離に落下するのかを経験則として身につけるのが重要だと感じました。実際の鯨は、身体を大きく水面上に出す事はなく、呼吸孔がある背中の一番高い所付近を僅かに出してるだけなので、投げ上げ投射の方が目標の範囲が広くなって有利だったと思われます。
銛は船などの抵抗物を銛綱で結び、鯨を疲労させることが用途の道具で、銛先に根元側に向かって突き出た「返り」を持ち、刺さると抜けなくなるのが重要な機能です。古式捕鯨業が始まった1570年頃、発祥の地・尾張で用いられていたのは、突いた後、銛先だけが体内に残る「燕銛」という離頭銛でした。尾張師崎の突取捕鯨の様子を紹介した『張州雑志』の図を見ると、銛は低い角度で鯨に投射されています。その後、突取法は紀州熊野地方に伝播しますが、紀州の捕鯨の様子を描いたと思われる『捕鯨図屏風』を見ると、銛先を柄に固定した銛(固定銛)が上から真っ逆様に鯨に落下しており、投げ上げ投射がおこなわれていたことが確認できます。なおこの銛の銛先は、左右の「返り」が同じ形状(左右対称)でした。
『西海鯨鯢記』には、大村領を本拠とする深澤組が、明暦年間(1655〜58)に「デンチウ銛」という新しい銛を発明したという記述があります。『西海鯨鯢記』や『張州雑志』の図や記述によると、この銛は左右非対称の返りを有した固定銛でした。返りが非対称だと引く力が不均衡にかかるため、対象物にくい込み易く外れ難かったようです。また茎部(先端と柄への固定部分の中間)も長く、後世の同系統の銛でも銛先全体が軟鉄で作られている事から、刺突後、銛に引く力がかかると茎が曲がって抜け難い構造になっていました。18世紀に網組でおもに用いられていた萬銛については、「太地浦鯨方」には「萬銛西国吉村組始り」とあり、平戸系突組の吉村組の創始だと記されていますが、デンチウ銛が大型化したものだと考えられます。
2013.7