長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.121「かくれキリシタン名称考」

 キリシタン信仰に由来し、禁教時代にも継承され、復活後カトリック教会に合流せず、生月島や外海・五島地方に残った信仰については、過去、様々な名称で呼ばれてきました。
 宣教師の報告を見ると、復活以降のカトリック教会は同信仰の信者の事を「はなれキリシタン」と呼んでいました。昭和15年(1940)刊行の『カトリック大事典』の項目名も「はなれ」ですが、解説を書いた田北耕也氏は、禁教下の潜伏状態を復活後も保持している集団を「旧キリシタン」とし、彼らは「旧状」を「継続」し、「祖先の宗教を忠実に守ってゐるのは自分達」だと認識していると紹介しています。同氏が昭和29年(1954)に刊行した『昭和時代の潜伏キリシタン』では「潜伏キリシタン」という名称が用いられていますが、その中では寛永15年(1638)の島原の乱の終了から元治2年(1865)の信徒発見までの期間についても潜伏キリシタンとして捉えられています。

 宗教社会学者の古野清人氏は、昭和41年(1966)刊行の『隠れキリシタン』で、行事や信仰の内容が著しく変貌した「第三のもの」として「隠れキリシタン」という名称を用いています。一方、宗教学者の片岡弥吉氏は、昭和42年(1967)刊行の『かくれキリシタン』で、禁教期の宣教師不在という状況下、混成宗教的形態を持つ信仰形態として「かくれキリシタン」が成立したとしていますが、この名称が昭和40年(1965)に同信仰が国の選択無形民俗文化財に選択された時にも採用されています(長崎「かくれキリシタン」習俗)。

 近年かくれキリシタンの調査に取り組んできた宮崎賢太郎氏は、平成4年(1992)の「カクレキリシタンの呼称について」という論考で、禁教時代と復活以降の集団を区分した上で、前者を「潜伏キリシタン」、後者をいまだに隠れている誤解を抱かせないようカタカナで「カクレキリシタン」と表記する事を提唱しており、その後刊行された氏の著作も『カクレキリシタンの信仰世界』『カクレキリシタン』等となっています。
なお信者自体は自身の信仰を「旧キリシタン」(生月島)、「昔キリシタン」(外海)、「古キリシタン」(天草)などと呼んでいましたが、これらは再布教のカトリックを「新キリシタン」とみなした上での呼称でした。これらから推測すると、かつての自称は「キリシタン」だったと思われるのですが、宗教学の野村暢清氏も昭和63年(1988)刊の『宗教と社会と文化』で、この信仰をキリシタン時代に布教されたものが一貫して伝わってきたものと捉え、「キリシタン」という名称を宛てています。

 私は、第1にこの信仰が、〔隠す必要がない当時の〕キリシタン信仰の内容が、〔隠さねばならなかった〕禁教時代を経て、〔隠す必要がないのに隠していた〕状況、さらには〔隠さない〕状況と変転しながら継承されてきた点を捉えると、その一連の流れを反映した名称であるべきと考えます。しかし第2に、布教サイドが無くなり、全く新規の布教が行われない、信仰を隠す(過去隠した)、他の宗教・信仰と「併存」している点など、キリシタン信仰と異なる点なども考え併せると、キリシタンとは別に「かくれキリシタン」という名称を用いるのが、国の文化財の名称でもある事も併せて相応しいと考えます。

2013.8

 




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