長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.123「舘浦恵比須神社の石造物」

 先日、11月24日におこなうモニターツアーの町歩きの下見で、舘浦漁協前の恵比須神社境内の石造物を観察させていただきました。興味深いのは、近代舘浦の百年の漁業の歴史が、境内にある石造物で理解できた事でした。

 明治16年(1883)制作の『北松浦郡村誌』の「山田村」「生月村」の項を見ると、当時の生月では鰯を全く取っていない事が分かります。同時期の肥前地方(長崎県・佐賀県)は全国一の鰯の漁獲を誇っており、どの浦でも鰯網が盛んだった事を考えると、大変奇妙な事です。この頃までもっと利益が見込める捕鯨業や鮪定置網漁が盛んだったため鰯漁の必要が無かったか、漁業権に何らかの制約がかかっていた可能性があります。しかし明治末期に近づくと鯨の捕獲が減少したため、島の経済に暗雲が立ちこめていきます。

 恵比須神社にある「生月鰛揚繰網元祖 峰寛次郎氏之記念碑」(大正10年)の碑文には、捕鯨業のため舘浦に来た峰氏が、鰛の群れを目のあたりにして発起し、明治38年(1905)に揚繰網(鰯和船巾着網)の発明者・千本松喜助氏を千葉県から招聘して、同網の操業を始めた経緯が記されています。これにより鰯和船巾着網は生月島で盛んになりますが、網船が無動力(櫓走)であるため漁場は沿岸に限られ、冬場の大羽鰯の捕獲も困難でした。それを克服するためには網船の動力化が不可欠でしたが、それには常時船を係留できる港が必要です。当時の舘浦湾は湾入も浅い上、防波堤も短いものしか無いため風波を防げず、嵐の前には集落内まで船を曳き上げて護る必要がありました。こうした状態では船を動力化する事は困難だったのです。その状況の打開に動いたのが近藤平重氏でした。「近藤平重君頒徳碑」(昭和21年)には、氏が中心となって大正9年(1920)から舘浦港の防波堤の建設に着手し、昭和16年(1941)に完成したが、工費90万円のうち国県の補助は僅か12万円余に過ぎず、残りは漁民の支出で贖われた事が記されており、近藤氏のリーダーシップと未来を見据えた慧眼に、頭が下がる思いがします。

 港湾整備で巾着網の動力化(まき網化)が昭和初期に達成されると、舘浦の水産業は更なる発展を続けます。恵比須神社の石鳥居は舘浦揚繰網が昭和9年(1934)に奉納し、祠の前の狛犬は舘浦片手廻揚繰網の各船団の灯船の頭領たち(漁労長に次ぐ役職)が昭和10年(1935)に奉納しており、当時の盛漁がしのばれます。

 昭和40年頃から、生月島の遠洋まき網船団は北海道東沖に出漁し、未曾有の豊漁となり、島は好景気に見舞われますが、昭和40年(1965)には金子商店(まき網会社)の社長であり、当時衆議院議員だった金子岩三氏が、灯籠と狛犬を寄進しています。

 興味深いのは、恵比須神社に奉納された灯籠や旗竿石のなかに、山口県大島郡沖家室の出漁船団からのもの(昭和10年、15年)がある事です。沖家室は、瀬戸内海は広島湾の入り口に浮かぶ周防大島の南側にある小さな島ですが、一本釣漁を主体とするここの漁民は、小さな釣船で玄界灘沿岸や遠く朝鮮半島まで出漁して操業しています。彼らが生月島にも足跡を残している事を、これらの石造物は明らかにしてくれています。

2013.10

 




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