長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.124「潮見神社と七郎神(2)」

 潮見神社に祀られている七郎神については従来、仲哀天皇の御孫・十城別王の家来だとされてきましたが、『神社帳抜書』(江戸時代)の平戸の七郎神社の項には、七郎大権現は仲哀天皇当時の左大臣・別氏(和気氏の事か)の嫡子で、神功皇后に従い「三韓征伐」に加わり帰国した後、天平10年(738)に神として「出現」したとされます。その後、天応10年(790)の遣唐使の派遣に関連して「紹法七郎大権現」の勅額が下賜されたとされますが、ここに登場する「紹法」という名称については、中国で宋〜明代初頭に信仰された「招宝七郎」という神に由来する事を、二階堂善弘氏が明らかにされています。

 15世紀に纏められた『水滸伝』に、豪傑が招宝七郎のような構えをしたという記述があるように、中国で招宝七郎は独特のポーズで知られていました。平戸でかつて七郎神社が在った宮の町の上方にある曹洞宗・瑞雲寺の本堂には、伽藍神として招宝七郎の像が祀られていますが、その像は右手を顔の前にかざして遠くを眺めるような姿をしています。『西遊記雑劇』という本にも、寺の経蔵を守護する大権修理菩薩が登場しますが、この菩薩も手を上げた姿をしているとされ、招宝七郎と同じ存在だとされます。江戸時代の臨済宗の学僧・無著道忠は、伽藍神として水平大王(別名「周七郎」)を挙げ、大権修理と招宝七郎は同じ存在で、大権修理はインドの阿育王の郎子で、舎利塔の守護者で、中国の明州(寧波)にある招宝山に渡来したとしています。二階堂氏は、中国でもともと龍神として信仰されていた水平大王が、のちに寺院の伽藍神になったと推測しています。

 平戸周辺の七郎神も、紹宝という名称から、中国からの渡来神に起源を持つと思われますが、中国における招宝七郎のあり方から鑑みて、航海の守護神、もしくは禅宗の導入に伴う伽藍神として導入された事が想定され、平戸周辺の神社の祭神として祀られた七郎神については、港や海峡などに立地する事から考えると、前者の形だと思われます。こうした招宝七郎神の普及の背景には、9世紀頃から17世紀初頭にかけて八百年にわたり、日本の最も重要な対外交流ルートとして機能した、博多と中国の寧波(明州)を結ぶ航路「大洋路」の存在があると考えられます。
 大洋路を航海したのは、おもに中国人商人が運営した大型のジャンク船でしたが、彼らは日本側でも博多をはじめ各地に居住して商業活動に従事していました。また航路筋の日本側海民の中にも乗組員になる者がいたと思われ、こうした日中の海民が錯綜する航路筋の海域に招宝七郎が航海神として祀られ、航路の安全を司ったと考えられるのです。2013.11

 ただ生月島では、16世紀後半にはキリシタン信仰が普及した結果、仏教も排除され、神道系神も同様の扱いを受けた可能性があります。潮見神社については『生月史稿』に、明暦2年(1656)壱岐などで突組を操業した磯辺弥太郎が創建したという記述があり、禁教以降の設立とする点では辻褄が合うのですが、元となる史料は確認できません。航路上の辰ノ瀬戸の重要性を考えると、中世に七郎神が祀られていた必然性もある事から、キリシタン時代にも潮見崎の七郎神社は何らかの形で存続した可能性もあると思います。

 




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