長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.127「大洋路の成立と生月島」

 以前、「生月島」という地名の初見に絡んで、第19回遣唐使船の航海について触れたことがありましたが、その後、上田雄氏の『遣唐使全航海』をはじめ、いくつかの遣唐使について書かれた書物を読み、少し見方が変わった所も出てきたので、今回、改めて遣唐使の航海、なかでも航路に焦点をあてて検討してみようと思います。

 遣唐使船の航路は、従来、舒明2年(630)に最初の使節を送ってから第7回までは、壱岐、対馬を経て朝鮮半島西岸を北上して山東半島に到る、遅くとも弥生時代には用いられていた航路(北路)を利用し、大宝2年(702)の第8回から天平勝宝4年(752)の12回の間は、九州西岸沿いに南西諸島まで南下し、東シナ海を一気に北上して中国大陸に到る南島路が利用したとされてきました。しかし上田氏の見解に従うと、南西諸島への使船の来着は、荒天などが原因で本来の航路を外れて漂着したケースが多く、本来の航路として用いられたものではないようです。それについて上田氏が注目したのは、斉明天皇5年(659)に日本を発した第4回遣唐使船の航路で、その時の使船2隻は、途中までは朝鮮半島に渡る従来の北路を取っていますが、その後、半島南西の百済南畔の島から大海(すなわち東シナ海)に出て、僅か3日で華中の杭州湾付近に到達しています。このルートは出発地こそ朝鮮半島ですが、東シナ海を横断する点でその後の南路(大洋路)と基本的に同じ航路です。おそらくは百済や新羅など朝鮮半島の船乗りが、この航路の情報を伝えたのでしょう。さらに大宝2年(702)筑紫(博多湾)を出発した第7回遣唐使は、詳細な航路の記述がないため、これまで南島路を取ったとされてきましたが、到着地(楚州塩城県)から考えると、南路を本格的に利用した始めてのケースだと考えられます。

 その後の遣唐使船は、博多湾から平戸、五島を経て、東シナ海を横断して華中に至る南路を利用しますが、繰り返された遣使の中で、航路各所の潮流、風向、沈礁などの位置、水の確保が容易で安全な停泊地、現在地の目印になる地形なども知識も蓄積されたと思われ、また泊地における宿営や食料、薪等の補充などのインフラも確立されていったと思われます。また天平勝宝4年(752)に出発した第10回遣唐使の第4船の舵取りとして、肥前国松浦郡出身の川部酒麻呂が参加していた事が『続日本記』に記されていることから、松浦地方の住民からも海の知識を活かし、航海に参加する者がいたことが分かります。

 寛平6年(894)菅原道真の建議によって遣唐使の派遣が廃されます。これについては、表向きの理由以外に、新羅や唐の商人達が、イスラムの技術を取り入れた堅牢な船(ジャンク)に乗って来航しするようになった事が大きいと推測しますが、朝廷も、安全に航海できる船を用い、遣唐使の派遣によって構築された南路(大洋路)の航路情報やインフラを無駄にせず活用し、より確実な交易活動を持続的におこなっていく事を希求したのではないかと思います。そして、大洋路の航路筋にあたる生月をはじめとする島々の住民も、川部酒麻呂のように、以後八百年にわたり大洋路の交易活動に何らかの形で関与する事で、生活を営んでいったと考えられるのです。

2014.2

 




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