生月学講座 No.128「江戸時代の接遇空間」
- 2019/12/18 10:08
- カテゴリー:生月学講座
以前の講座で、益冨家の座敷建物の部屋配置がもともと座敷、次、三ノ間(8畳)の三間と付帯施設で構成され、平戸藩主の接遇を意識した構成になっていたことを紹介しましたが、江戸時代の同様の役割を持つ他の施設を見ると、こうした構成が接遇空間として一般化していたことが分かってきました。
江迎本陣跡(山下家)は、参勤交代や長崎往来の途次に平戸藩主が宿泊する施設でした。ここには益冨家同様、藩主一行が利用する御成門があり、敷地内に新旧の接遇空間が残ります。前庭西側の主屋旧構には、式台の間(12畳)、次の間(8畳)、重臣控えの間(8畳)、奥の間(8畳)が直列し、式台の間の庭側に玄関が、重臣控えの間の北側壁に床が設けられています。本陣には天明元年(1781)に藩主が逗留した記録がありますが、当時はこの主屋旧構が接遇に用いられ、床と欄間を持つ重臣控えの間が御成の間として機能し、御成の間(重臣控えの間)、次の間、式台の間の三間で接遇空間を構成していました。藩主は御成の間(重臣控えの間)に縁から上がり、お付きの家臣が式台の間の玄関を用いたと考えられますが、この部屋には玄関を上がった正面に床があり、天井に提灯等を吊す鉤、長押に槍置きが存在するなど、家臣の控え室としての性格がよく現れています。なお主屋旧構が接遇の場だった頃には、東側の前庭が御成の間からの鑑賞対象でした。
御成座敷は、主屋旧構の重臣控えの間の東側に突き出た、御成の間(8畳)、次の間(8畳)からなる建物で、天保3年(1832)松浦熈が休泊した際に増築されたと思われます。御成の間の東奥壁には床が、北側(山側)には池や滝を配した瀟洒な後庭が設けられ、庭に接して縁が存在します。御成の間の東側(床の壁の背後)には藩主専用の風呂や雪隠が設けられています。御成の間の前庭側に沓脱石があり、藩主はここから上がりましたが、家臣は旧来の主屋旧構の玄関を用い、旧構全体を三ノ間の代わりに用いたと考えられます。
佐賀県呼子町の中尾家屋敷は、江戸時代の鯨組・中尾組の組主の屋敷ですが、単体建物である益冨家の主屋・座敷と異なり、二棟の二階建ての町屋建物を結合して主屋としています。当初(18世紀前期)北棟が用いられ、その後(18世紀中頃)南棟が建設されますが、その際、北棟北側の一連の部屋が、座敷(8畳)、中の間(6畳)、表座敷(6畳)で構成される接遇空間に改造されたようです。玄関には、表座敷の南側にある土間と、道路に面した玄関(もとの北棟町屋の玄関)を用いたと考えられます。座敷には床が存在し、飾り欄間があり、座敷の西側に1間幅の廊下を挟んで中庭がありましたが、興味深いのは座敷と中の間の上(二階部分)が、土壁で完全に閉ざされた空間になっていることです。一階に居る貴賓を、二階の者が足下にすることがないための措置で、町屋建物に接遇空間を設定したが故の対応だと思われます。なお18世紀後期には西の港側に観濤閣という二階建ての施設が新設され、接遇空間はそちらに移っています。2014.3
明治時代以降に炭鉱経営者が建てた旧高取邸(唐津)でも、三間の接遇空間は確認できますが、次ノ間や三ノ間は狭く、茶室も兼ねるなど、旧来の機能からのズレが認められ、一方で洋風の応接室も設けられるなど、接遇パターンの多様化が確認できます。