生月学講座 No.146「キリシタン信仰と安満岳」
- 2019/12/18 10:26
- カテゴリー:生月学講座
以前、現代の安満岳の信仰について紹介しましたが、今回は生月島にキリシタン信仰が入った頃の安満岳について見ていこうと思います。
戦国時代、安満岳にあった寺院については、平戸には全く記録が残っていませんが、1571年にヴィレラ神父が記した書簡には、詳しい記述があります。
「私が一年間住んだ平戸の町は土地が狭小であるが故に僧院はさほど多くはない。ただし、同地にある僧院は収入が多く、なかでも安満岳と称する僧院はほぼ百名の仏僧を擁し、収入が多く立派である。腐らぬ香りのよい木材で建てられており、創建以来およそ四百年を経ているが、ほとんど新築のように見える。この僧院に従属する村が多数ある。同寺の仏僧は説教をせず、ただ俗人らに瞑想を行なわせ、彼らが救いと呼び、私が破滅と呼ぶ彼らの宗旨を説く。彼らは豪奢な生活を送り、望み通りの暮しを得ている。」
この記述から、当時、安満岳にあった寺院は12世紀頃におそらくは檜を用いて建てられ、多数の村を寺領とし、百名もの寺僧がいて、彼らは禅の修法も行っていた事が分かります。なお安満岳の奥の院に祀られている薩摩塔という石塔は、13世紀前後の時期に、平戸沖を経由していた日中間の航路(大洋路)の中国側終着港である寧波(ニンポー)付近の梅園石を用いて製作された事が分かっていますが、大洋路を往来した貿易商人が、安満岳の寺院の創建時か、程近い時代に奉納した可能性があります。
1559年にヴィレラ神父が記した書簡には、1557〜58年に彼の主導で行われた籠手田領の一斉改宗の後、仏僧がキリシタンを非難した事が記されています。
「すべては発展の途にあって、かかる事業により悪魔を大いに苦しめたため、悪魔は一人の仏僧を用いて我らに対する大きな迫害を起こした。この仏僧はキリシタンの増加を見、また、或る日、私との論争において大いに恥をかいたが故に、彼は他の手段で復讐することとし、直ちに平戸で虚偽(の教え)を弘めた。それにより彼は民衆を引き付け、説教において我らをこの地から追い出すべきであり、さもなくば神々が何らかの大きな罰を彼らに下すであろうと唆した。人々は我らに対して多くの偽証を行ない、十字架を切り、そのほか多くの害をなして我らを平戸から放逐したが、これは全キリシタンの苦痛と悲嘆を伴うことであった。」
1564年のフロイス神父の書簡には「平戸に、安満岳と称する仏僧の頭領で、我らにおいては司教か大司教のような人物がいた。彼はキリシタンとその信仰にとって常に大敵であり、彼の勧めにより当地では十字架が切り倒され、ガスパル・ヴィレラ師、その他の司祭らが平戸から追放された。」とある事から、先にヴィレラ神父が記した仏僧も、安満岳の僧侶である事が分かります。なお同じフロイス神父の書簡によると、安満岳の仏僧は、1564年に籠手田氏が松浦家の軍勢に加わって出陣していた時に、籠手田領の一部の割譲を要求しますが、この時の家を焼くなどの強硬な姿勢が災いして、松浦隆信によって領外に追放されています。なおその時に割譲を要求した領地は、安満岳の北西にあって、安満岳に船で行く場合に玄関となった春日だったと考えられます。
(2015.9)