長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.156「ウンカ」

 生月島では4月末には早期作、6~7月には普通作の田植えが行われ、水田ではたおやかな早苗が初夏の風にそよいでいます。この時期、農家を心配させてきたのが稲の害虫・ウンカです。
 ウンカは、カメムシ目ヨコバイ亜目に属する成体長5ミリ程の虫の総称で、稲の茎に口吻を刺して水や栄養を吸いますが、多くのウンカが付くと稲が枯死する事があります。ウンカは、春に東南アジアや中国南部で生まれたものが、初夏、南風に乗って日本列島に飛来し、発生を繰り返しますが、大発生した年には稲作に深刻な被害を与えました。特に被害が深刻だったのが享保17年(1732)西国で起きた大発生で、各地で稲作が壊滅的打撃を受け、多くの餓死者を出した状況は「享保の飢饉」と呼ばれました。
 害虫による農作物の被害はキリシタンの時代から深刻に受け止められていて、フロイス神父の1596年の報告には、天草下島で、畑に発生した害虫を駆除するため、キリシタンの女性が聖母マリアに数日間オラショを唱える事を約束したところ、害虫が死んだ事が記されています。生月島壱部のかくれキリシタン行事「六ヶ所寄り」では、「作のサービャー除け」を祈願するオラショが唱えられていましたが、「サービャー」とは「サ」(稲)に付く「ハエ」(羽付きの小虫)すなわちウンカの事です。『紐差村郷土誌』には、平戸島草積のかくれキリシタン信者が、田の中に守り札を立てて祈祷し虫害を免れたという話が記されていますが、生月島山田のかくれ信仰でも、和紙を剣先十字形に切ったオマブリを先端を割った竹棒に挟んで田に立てており、これも虫除けの札だったと思われます。
 生月島で民俗行事として行われていたウンカ退散の行事が「虫祈祷」です。初夏、各集落では藁でサネモリ様の人形をこしらえましたが、立派な藁のチョンコ(男性器)にトウキビの髭で陰毛をつけ、足を曲げ、刀を差し、笠を被せました。人形の魂入れを永光寺で行った後、田の中の道を鉦を叩きながら担いで回り、最後は海に流しましたが、行事の後は不思議と虫が居なくなり、海面にびっしりと虫が落ちていたそうです。なお現在は人形は作られなくなり、紙のお札を下げた笹竹を田の各所に立てています。
 このようなサネモリ送りの行事は、江戸時代以降、各地で行われていますが、江戸時代の中頃になると、実際に効果がある鯨油除蝗法が行われるようになります。この方法の原理は、鯨油の膜を薄く水田の表面に張り、稲苗を叩いてウンカを落とすと、ウンカの気門が鯨油で塞がり呼吸困難となって死ぬというもので、おそらくは中国の農書にあった、油を用いたウンカの退治法に着想を得て、程良い粘度を持つ鯨油で行うようになったようです。この方法が広まると、西国諸藩はこぞって鯨油を備蓄し、ウンカの発生が報告されると迅速に鯨油を配布して被害をくい止めるようになりました。鯨組にとっても鯨油除蝗法の普及は朗報で、菜種等の生産が増えた事で、臭気がある鯨油の灯油としての需要が低迷していた所、諸藩が毎年、鯨油をまとめ買いするようになったため、資金調達まで容易になりました。生月島の益冨組も、肥後藩(細川家)や筑前藩(黒田家)と鯨油の大口取引を行うことで、経営の安定・拡大に繋がっています。

2016.7

 




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