長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.159「サンジョワン様の唄再考」

 生月島山田集落のかくれキリシタン信仰で伝えられてきた「サンジュワン様の唄」「ダンジクの唄」について、以前、御爺役が葬送の際に歌う挽歌だったのではという仮説を提示しましたが、今回は行事の構造という点から再検証してみようと思います。
 この2つの歌は、山田集落の御爺役・親父役が全員寄って行われる「三触寄り」という規模の行事で、行事の中心をなす「本座」のオラショを唱える時ではなく、その後に行われる宴席で、本座でも歌われる「うぐるりや(御前様の唄)」とともに歌われます。
 山田集落で行われる「三触寄り」には、「ハッタイ様」(4月12日)、「風止めの願立て」(6月頃)、「土用中寄り」(夏土用)、「風止めの願成就」(11月頃)の4行事がありましたが、調べてみると、いずれも稲作に関係する行事である事が分かってきました。「ハッタイ様」は、田植えに必要な降雨を河口の祭場で祈願する行事でした。「風止めの願立て」は、稲の開花や結実に先立ち、受粉の妨げや実った籾の落下を引き起こす風の害を防ぐ事を(おそらくは洗礼者ヨハネに)祈願する行事で、「風止めの願成就」は害が無かった事を感謝する行事でした。「土用中寄り」は昭和初期に行われなくなり、聞き取りでも詳しく確認できませんが、外海の出津のかくれ信仰で行われる陰暦7月の「作上り祭」は、田植えの終了後、組内で豊作を祈願する行事だとされ(『カクレキリシタン』)、浦上三番崩れの記録「異宗仕置書付」にも、浦上では四季の土用中に、五穀豊穣、国土安全報恩の祭を行ったとある事から、土用中寄りも農業(稲作)に関係した行事である可能性が高いようです。またかくれ信仰の集落規模の組については、キリシタン布教当初の1550~60年代以降に成立した、小教区的性格を有した「慈悲の組」が起源だと考えられていて、同組の役職である慈悲役は、教会堂の管理や信者の葬儀に携わった事が、宣教師の報告に記されていますが、「三触れ寄り」の行事がいずれも稲作に関する行事である事を考えると、山田集落においては、布教以前、村の行事として行われていた稲作関連行事を、一斉改宗後には慈悲の組の所管で、キリシタンの行事として行った事が考えられるのです。
 三触れ寄りの4行事が慈悲の組の主催行事だとすると、「サンジュワン様の唄」と「ダンジクの唄」も、慈悲の組が主管する行事で歌われる唄であった事が考えられます。そしてこれらの歌が宴席で歌われる事については、この2曲が『どちりいなきりしたん』に記されている、天(のデウス)に信者の思いを伝える道・橋の役割を果たす、正式なオラショではなかったからだと思われます。(正式な)オラショは、教会や十字架で行われるミサでも唱えられた事が、宣教師報告でも確認されていますが、これらはカトリック教会で定められた正式な祈りです。一方「サンジュワン様の唄」と「ダンジクの唄」は、日本人信者が自らの信仰心を歌ったものですが、カトリック教会で認められた正式なオラショではなかった事から、祭事後の宴席で歌われる形になった事が考えられるのです。なお「うぐるりや」が2曲とともに宴席でも唄われた点については、本来この歌が賛美歌であり、典礼で唱えられる祈りでなかったからかも知れません。

2016.10

 




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