長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座 No.162「手形切り・鼻切り」

 捕鯨では、捕獲した鯨体を確保して運搬する過程も工夫が必要でした。鯨の身体は泳ぎに適した流線型をしていて表面はつるつるしています。また背美鯨や抹香鯨は死んでも厚い脂肪層によって身体は浮いていますが、その他の鯨は筋肉質が勝り死ぬと沈んでしまいます。そのため近代捕鯨では、捕殺した鯨に空気を入れて浮力を持たせた上で、クロウという爪状の器具で尾鰭を掴み、砲殺捕鯨船などの舷側に付けて工船まで運びました。
 江戸時代の益冨組が行った網掛突取法では、銛突、剣突を行って動きを止めた鯨に手形切り(鼻切り)という作業を行います。『勇魚取絵詞』によると、ハザシ(羽指)が専用の包丁を持って海に飛び込み、鯨の背の上に取り付き、座頭鯨の場合、二つある潮吹穴(鼻)の間にある障子(しょうじ)という板状の肉を包丁でえぐって穴を開け、鼻の穴が一つの背美鯨は、穴の壁を上下二か所えぐって繋げました。手形切りが終わると別のハザシが綱を持って泳ぎ、穴に綱を通して船に繋ぎ留め、鯨の逃走や不意に沈むのに備えましたが、その作業を「障子釣り」と言いました。障子釣りが終わると鯨の背や腹を剣で突いて半死半生の状態にして、次の持双掛け(運搬)の作業が容易に出来るようにします。
 持双掛けでは、二艘の持双船を若干間隔を空けて並行に並べ、「持双柱」という柱を掛け渡して固定します。そして二艘の間に鯨を挟むように配置し、綱を持ったハザシ二名が鯨の胸と腹の下を潜ってくぐり、船に括り付けて綱で鯨体を吊るようにします。そこまで終わると鯨に止めを刺すのですが、鯨に人が取り付いて行う手形切り(鼻切り)や持双掛けは日本の古式捕鯨独特の作業で、網掛突取法の他、江戸時代後期の薩摩半島で行われた定置網捕鯨や、明治時代に平戸瀬戸で行われた銃殺捕鯨でも行われています。
 網掛突取法以前の突取法でも手形切り(鼻切り)が行われたかについては、今のところ確たる資料が確認されていません。ハザシという役職は江戸時代前期から確認でき、寛永14年(1637)から万治3年(1660)にかけての期間、紀州熊野の三輪崎浦・宇久井浦から西海で操業する突組に雇われたハザシが居たことが「指上ケ申五島行鯨突羽指共之口書」(宇久井文書)という史料から分かりますが、その中に伊勢の貝取(海士=潜水漁師)が居た事が確認できます。海士をハザシに雇う事は西海の網組でもよく行われましたが、それは水中作業を行う必要があったからだと考えられます。西海の突組のハザシに海士が雇われていたという事は、突取捕鯨でも鼻切りが行われていた可能性が存在します。
 さて、専業の鯨組による突取法は、『西海鯨鯢記』によると元亀年間(1570)尾張師崎(伊勢湾)で始まったとされます。『張州雑志』という史料には18世紀後期に師崎で行われていた突取捕鯨の様子が図で紹介されていますが、そこには初期の突取法から受け継いだと思われる古い要素も確認できます。特に特徴的なのは鯨体確保・運搬の方法で、捕獲した鯨の上頭部に体長と直交する左右方向に包丁で穴を抉り、帆柱を貫通させて、両側の船に柱を括り付けて運んでいます。洋上で行うのはかなり厄介な作業だと思いますが、この方法が鼻切り・障子吊りの起源と考えられます。おそらくは波静かな伊勢湾から外洋の熊野灘に漁場が変わり、絶命すると鯨体が沈む座頭鯨などの捕獲の際に、小さな穴を開けて綱を通す簡単な作業で終わる鼻切りの方法が行われるようになったと考えられます。

2017.1

 




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