生月学講座 No.164「松浦隆信(宗陽)の時代」
- 2019/12/18 10:36
- カテゴリー:生月学講座
映画「沈黙」で、井上筑後守がロドリゴに平戸の殿様の話をする場面があります。話の内容は殿様が四人の側室の嫉妬に手を焼き最後には全員追い出すというもので、実は側室とはスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスの四国の事で、互いに自国の利益を競って他国を蹴落とそうとする有り様を女の嫉妬に喩えたのでした。この喩えが成り立つ藩は日本中でも、四国の貿易船が入港したり商館が建てられた経緯がある平戸だけで、登場する殿様役に相応しい経歴を持つ平戸藩主が松浦隆信(宗陽)です。
隆信は、天正19年11月(1592)松浦久信と大村純忠の娘(のちの松東院)の間に生まれました。当時はまだ平戸の海外貿易を発展させた曽祖父の松浦隆信(道可)が存命中でしたが、キリシタン大名だった純忠の娘は熱心なキリシタン信者でした。慶長4年(1599)に隆信(道可)が没すると、祖父の松浦鎮信(法印)は多くの領主が半ば独立していた藩内の状態を改革し、藩主に家臣が従属する中央集権的な領国の建設を目指すなかで、キリシタンの棄教を迫って籠手田氏・一部氏を長崎に逐います。慶長6年(1601)には父・久信(泰岳)が藩主を嗣ぎますが、翌年に早世し、慶長19年(1614)には鎮信(法印)が没した事で、隆信が実質的に権力を掌握する事になります。
その前年末、幕府は伴天連追放文を発し全国でキリシタンを禁止しますが、慶長19年(1614)隆信は大村藩とともに藩兵を率いて長崎で警護や教会の破壊作業にあたっています。なお元和6年(1620)には「沈黙」に登場するフェレイラ神父が平戸地方を巡回していますが、元和8年(1622)には平戸・五島領で布教を行ったカミロ神父が逮捕・処刑され、神父を助けたキリシタン信者が中江ノ島などで処刑され、2年後にはその家族も処刑されています。イギリス商館長コックスは1622年3月16日の日記に、平戸での待遇が悪いのは、平戸国主(隆信)と母、兄弟姉妹がキリシタンだからと書いていますが、隆信もそのような風評を気にして禁教に取り組んだのかも知れません。隆信と母・松東院の墓は平戸の正宗寺(この寺の名も意味深長ですが)にありますが、どちらも祖父・鎮信や曽祖父・隆信と同じ積石基壇墓の上に、さらに巨大な位牌型石塔を立てた、仏教を強調した意匠となっています。
隆信の時代には、平戸のオランダ商館を中心に、オランダ東インド会社との商取引が盛んに行なわれています。また『西海鯨鯢記』によると、寛永元年(1624)に紀州藤代の鯨組(突組)藤松半右衛門組が度島飯盛で突取捕鯨を行っており、寛永3年(1626)には平戸町人の平野屋作兵衛も度島で突組の操業を行っています。以後、多くの平戸町人が貿易で得た利益を活かして捕鯨業に参入しますが、こうした貿易や捕鯨業の振興も隆信治世の業績と言えます。隆信は寛永14年(1637)に亡くなりますが、その後寛永18年(1641)にはオランダ商館が長崎に移転し、平戸は最大の経済基盤である海外貿易を失います。しかし捕鯨業の方はその後も順調に発展を続け、18世紀以降になると生月島の益冨組が西海漁場に覇を唱えるのです。
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