生月学講座 No.166「殿山の城」
- 2019/12/18 10:37
生月島の舘浦の北西背後にあり、現在、寺院(明法院)、墓地、大魚藍観音が所在する標高30㍍の細長い丘陵は「ドーノヤマ(ドノヤマ)」と呼ばれています。『生月史稿』では「いま「堂の山、堂の坂」というのは、すなわち教会の跡であろうか」と、ドーを堂と捉え、この丘に教会があった事に由来する地名だとしています。しかし『生月村郷土誌』には「翌(寛永)三年、如何ナル理由ナリシニヤ(井上)八郎兵衛ハ遂ニ殿山ノ城ヲ捨テ、平戸ニ轉住セリ。」とあり、ドーノヤマは殿山だとしています。殿山の地名については他にも例があり、五島中通島の青方氏が残した『青方家文書』の青方村城跡の絵図には、山麓に青方氏の居館の一段高い敷地があり、その背後にある「殿山」という地名の山は城跡とされています。「舘浦」の舘(タチ)も領主の館に由来していると思われますが、館の背後に殿山(城)がある位置関係は青方と一緒で、領主が普段暮らす館は平地にあり、その背後にいざという時家臣と立て籠もる城郭を構えた事が考えられます。
城の構造も舘浦と青方では似ていて、青方殿山では延びた尾根の先端上部に郭(くるわ)という平地を設け、背後の尾根に直交する堀(「堀切」と言います)を設けて、尾根伝いから郭に迫る敵を阻止しています。舘浦殿山の場合、北東に向かって延びた丘陵上に、先端から①明法院、②墓地、③大魚藍観音が所在する小平地が連続しており、丘陵の北東先端、南側、北側の斜面はいずれも急傾斜で、特に南側の現状は崖そのものです。西側は尾根伝いに背後の丘陵(山田幼稚園が所在)に繋がっていますが、そこ(大魚藍観音と塚本氏宅の間)には現在、道路となっている深い切り通しがあります。地元の方の話ではここは昔から切り通しだったといい、恐らくは尾根筋に堀切を設けて防御線にしたと思われます。このように長く伸びる丘陵の先端に郭を設け、背後の尾根筋に堀切を設けて防御とするスタイルは、江戸時代始めに築かれた日之岳城(平戸城)でも踏襲されていますが、仮にこのタイプの城を先端郭型城郭と呼びたいと思います。
一方、北松浦地方や壱岐、五島には、台地の頂部に多く円形の土塁(と堀)で郭を囲んだタイプの城も存在し、仮にこちらのタイプを囲郭型城郭と呼びたいと思います。同タイプの城には、壱岐勝本の高津城、生池城、同郷ノ浦の帯田城、五島小値賀島の膳所城、佐世保市の井手平城(南郭)、西海市小迎の天狗山城、北松田平の籠手田城などがありますが、針尾島にある針尾城などは、丘陵先端を利用して背後に堀と土塁を設けた内側に半円形の土塁と堀で囲んだ郭を作っていて、先端郭型と囲郭型の折衷形式と捉えられます。
先端郭型城郭は、城を設ける必要がある場所に、都合良く防御に適した急斜面を持った舌状丘陵(一端が途切れた長い丘陵)がある場合には設けられますが、城を必要とする場所なのになだらかな斜面の丘しかないような場合に、土塁と堀で防御する囲郭型城郭が作られた事が考えられます。囲郭型城郭の所在地に対外貿易に関係する港や海峡に近い場所が多いのも、どうしても城郭を設けなければならない必要性が感じられます。
先端型も囲郭型も単郭の比較的小規模の城で、地方領主の必要で設けられたと思われますが、戦国の戦いの激化のなかで、より大きな権力によって、尾根筋や斜面に複数の郭を設け、多数の堀切や竪堀で防御した大規模な山城も設けられるようになっていきます。
2017.5