長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No.174 「潜伏キリシタン」の問題2

生月学講座:「潜伏キリシタン」の問題2

 前回「潜伏キリシタン」という用語の問題点についてお話ししましたが、今回もこの用語を禁教(潜伏)時代に限って用いた片岡弥吉氏の言説について検証してみます。
 片岡氏は昭和42年(1967)刊行の『かくれキリシタン』で「潜伏キリシタンの宗教性は、(中略)、その濃度や純粋性が地域と集団によって非常に異なっており、中にはこんにちのかくれキリシタンと大差のない混成宗教的、土俗的なものもあったと思われるけれども、浦上、外海、五島などの多くの集団では、その政治社会の規制の中で可能な限りの宗教的純粋さを維持していた。」と述べ、潜伏キリシタンの地域・集団間に信仰の差異が存在する事に言及しています。そしてその差違は宗教性の濃度や純粋性に依るもので、一方に混成宗教的・土俗的なあり方が、一方に宗教的純粋性を保持したあり方が存在し、後者は浦上、外海、五島の潜伏信者に多く見られるとしています。そうなると前者は、明確には言及していませんが生月島、平戸島西岸の潜伏信者のあり方だと考えられます。つまり片岡氏は、禁教以前のキリシタン信仰は宗教的純粋性を保ったもので、禁教時代になってもそれを保持し得た(言い換えれば混成宗教化・土俗化が進行した)か否かが、地域・集団の信仰形態の差異の原因になっていると主張したのです。
 しかし片岡氏が言うように禁教時代の潜伏キリシタンの中に、混成宗教化・土俗化が進んだ集団と、キリシタン信仰の宗教的純粋さを維持した集団があったとすると、違いがある各集団とその保持する信仰を一括り(潜伏キリシタン)で捉えるべきなのかという疑問があります。特に片岡氏も述べているように前者は「こんにちのかくれキリシタンと大差ない」という事になると、禁教時代にも前者を「かくれキリシタン」、後者を「潜伏キリシタン」と別個に捉えた方が、実態に即している筈です。
 しかしそもそも、生月・平戸系の信仰を混成宗教化・土俗化が進んだもの、浦上、外海(五島)系の信仰を宗教的純粋性を保持したものと整理する事に無理があります。片岡氏が言う「混成宗教化」という状況は、信者が保持するかくれキリシタン信仰、仏教、神道の要素を一つの信仰として捉える事で成り立っていますが、実際にはかくれキリシタン信者は各宗教・信仰を独立的に並存させている形であり、その中のかくれ信仰の要素のみを検証した場合にも、明らかにキリシタン信仰由来の要素で、生月・平戸系と、外海・浦上系のどちらかだけに継承された要素が多く存在しており、宗教的純粋性の保持の度合いを差違の理由とする理解では説明できないのです。実際にはかくれ信仰の差違は、各地域・集団のキリシタン信仰での最終段階の形態(それはキリシタン信仰形態の時期差、地域差の反映)を、それぞれが継続してきた事に依ると考えられます。
 片岡氏の潜伏キリシタン理解は、復活後、(純粋性を保った)外海・浦上系から多くのカトリック合流者が出、生月・平戸系からは少なかったという状況を説明するために導き出された印象がありますが、実際には前者にも多くのかくれ信仰を継続する人々が居て、後者からも少ないながらカトリック合流者が出ています。カトリックへの合流頻度も、再布教の拠点だった長崎との距離や、神父の対応、かくれ信者の他宗教・信仰との関係性、信仰組織のあり方、かくれ信仰の展開量など、様々な要因が影響していると思われます。

(2018.1)

 




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