長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No.185「山田の三界萬霊塔」

生月学講座:山田の三界萬霊塔

 11月の初めに生月島山田の塚本区長さんから、集落清掃の際に三界萬霊塔が見つかったという話を伺いました。現場は山田触にある吉永池という溜池の下で、三叉路になっている場所です。以前から大きな石があるのは分かっていたそうですが、密生したダンジクに隠れていて、掃除の時に藪を払った所、自然石の正面に字が刻んであり、綺麗にしてみると「三界万霊」と刻んであるのが分かったそうです。実際に見ると中央に「○ 三界万霊有(下部不明)」、右に「干時寛文十一(下部土中)」、左に「七月中三日當村名敬(下部不明)」と刻まれているのが分かります。後日、村川要一さんにその石の事を伺うと、三界万霊塔である事は知らなかったが、昔からシロサマ(死霊様)と呼ばれていて、山田のかくれキリシタン信仰で4月12日に行われていた「ハッタイ様」行事の終いに、石の所に供物を入れたツト(苞)を納めていたそうです。
 山田集落には正和触にある修善寺跡下の道脇にも三界萬霊塔が存在します。これには自然石の正面中央に「(梵字) 三界萬(下部不明)」、右に「寛文十一年」、左に「七月十(不明)日」と刻まれていて、吉永池下の塔と年月(寛文11年7月)が一致します。旧暦7月13日は盆の入りの日に当たり、盆を意識して建塔した事が考えられます。ちなみに壱部浦トノガワにある三界萬霊塔の建塔日も寛文11年7月15日です。
 山田集落は3つの触(地区)からなり、そのうち山田触と正和触に三界萬霊塔が存在するという事になると、残る日草触にも塔が存在する可能性があります。今の所、明確に「三界萬霊」の字が彫られた塔は見つかっていませんが、山田小学校下の墓地の中に高さ140センチ程の自然石塔があり、正面はかなり風化が進んでいますが、中央に「○」と「為」の字、右に「寛」、左に「日」の字がかろうじて読みとれます。○の記号や文字の配置は吉永池下塔と同じで、この石碑が三界萬霊塔である可能性は大きいと思います。
 山田教会下の墓地は、江戸時代に「常楽寺」という寺院があった場所で、墓地内には江戸時代の無縫塔という僧侶の墓石に使われた形式の石塔が複数見つかっています。『田舎廻』という史料には、常楽寺は生月最古の寺とある事から、永禄元年(1558)に山田を含む籠手田領の一斉改宗が行われた時、山田の主要な教会に改装された寺院はこの常楽寺の事だと思われます。ちなみに正和の修善寺も『田舎廻』には、キリシタンが教会にしていた場所を江戸時代に寺院にしたとあり、アルメイダ修道士の1561年の書簡に出てくる元寺院を改装した小教会がここに当たると思われ、発掘調査でも中世の五輪塔が確認されています。このように、かつて教会だった寺院の所に三界萬霊塔を建立しているのは、住民の仏教への帰依を強調する意図があった可能性があります。
 『平戸市史』民俗編に掲載された久浦俊朗・萩原博文両氏による報告「三界萬霊塔」を見ると、平戸島では概ね村(集落)に1基、三界萬霊塔が建立されていたようですが、山田集落(山田村)では村の下の触単位で建立されていた事になります。山田はキリシタン領主・籠手田氏の本拠地であり、慶長4年(1599)の平戸領の禁教後もガスパル西玄可が指導を続けた、旧籠手田・一部領のキリシタン信仰の中心地と目される地だったため、特に多くの三界萬霊塔が建立された可能性も考えられます。

(2018.12)

 




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