長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No.193「捕鯨漁場の移動」

生月学講座:捕鯨漁場の移動

 古式捕鯨業時代の鯨組の漁期は、12月頃から始まり、3~4月に終わりますが、その期間、同じ漁場で操業する場合と、漁期の途中で漁場を変える場合があります。変える原因は鯨が回遊している事にあり、12月から2月頃にかけては、鯨はおもに南下しているのに対し、2月以降4月頃までは、おもに北上しているからです。前者の鯨を「下り鯨」、下り鯨を主に取るシーズンを「冬浦」といい、後者の鯨を「上り鯨」、上り鯨を主に取るシーズンを「春浦」といいます。この場合の上り下りは鉄道などと同じで、京都や江戸に向かうのを上り、離れるのを下りとしています。
 上り下り両方の鯨が良く来る漁場は、冬春連続で操業できる両期漁場なので好漁場と言えます。生月島(御崎)や呼子小川島は両期漁場で、それぞれ有力鯨組である益冨組、中尾組の本拠になっています。また壱岐の前目、勝本も両期漁場ですが「海鰌図解大成」に「瀬戸浦(前目)日本第一の鯨網代場なり 次同州田浦(勝本)日本第二の網代場なり」とあるように日本屈指の好漁場であり、西海漁場の通常編成である三結組(鯨網3組6艘を基幹とする網組)を2組合体した六結組(大組)が操業できました。寛永11年(1799)の「九州鯨組左之次第」には、三結組では一漁期(冬春)で20頭とればまずまずだが、この2漁場では冬裏50頭取っても大漁とは言わないとされています。
 しかし下り鯨のみ、上り鯨のみがよく回遊する漁場(片期漁場)もあり、そうした漁場を活用するためには、冬浦と春浦で漁場を移動させて操業する必要があります。こうした移動操業は17世紀中頃の突組の操業で既におこなわれており、平戸の突組・吉村組は、慶安元/2年(1648/49)から寛文8/9年(1668/69)にかけての16漁期、冬浦を壱岐で、各漁期の春浦を五島灘の平島、五島の鯛の浦、生月島、壱岐の浦海(西岸)、平戸島の宮ノ浦などで操業しています。吉村組は、春浦で上り鯨を取るのに有利な漁場を求めて移動していますが、こうした操業ができたのも、突組で加工をおこなう納屋場が比較的簡易な施設で、移動させるのが容易だったからだと考えられます。
 網掛突取法をおこなう網組になると、護岸を整備した捌場(解体空間)や、多数の施設を擁する納屋場など、恒久的な施設が用いられるようになったためか、漁場を移動操業する場合にも、冬春で固定した漁場を使用するようになります。例えば中尾組では(冬)福江島柏ー(春)黄島、(冬)小値賀島ー(春)平戸島津吉浦で操業しており、寛永11年(1799)の「九州鯨組左之次第」には益冨組が(冬)的山大島ー(春)壱岐印通寺浦で、大村領の岡田組が(冬)宇久島ー(春)嘉喜ノ浦、江島で操業させています。
 一方で、屈指の好漁場である壱岐の前目、勝本に操業する網組でも、冬浦には六結組で操業し、回遊鯨が若干減る春浦には組を折半して三結組一つを残し、残る三結組一組を他の漁場に派遣するようになります。「九州鯨組左之次第」には、冬浦に勝本で操業した土肥組は六結組の半分を春浦には対馬伊奈浦に派遣し、同じく冬浦に前目で操業した益冨組は六結組の半分を春浦には五島灘の平島に派遣しています。益冨組は19世紀前期に壱岐の前目、勝本両漁場を手中に収めますが、その後は冬浦に両方で操業した六結組の半分を、五島灘中部の江島と、南部の大板部島に移動させています。

(2019.8)

 




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