長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No.197「旧捕鯨地の鯨食事情」

生月学講座:旧捕鯨地の鯨食事情

 今年(令和元年)7月から、日本は商業捕鯨を再開しました。小型砲殺捕鯨船が沿岸で、大型砲殺捕鯨船が沖合で操業し、昭和63年(1988)以降商業捕鯨で捕獲できなかったミンク鯨、鰯鯨、ニタリ鯨を捕獲しました。操業は、対象鯨種の生息総数の科学的根拠に基づいた推定と、それから算定された持続的な捕獲頭数枠内で行われましたが、捕鯨の正否は、捕獲枠を厳守する管理体制とともに、商業捕鯨を成立させ得る鯨肉需要の存在にかかっています。
 鯨食は日本列島では縄文時代から行われていたと考えられ、室町時代には鯨肉は高級食材として京都の貴族などが食べていました。江戸時代初期に古式捕鯨が各地で行われるようになり、大消費地の畿内に近い尾張、紀州、土佐では鯨肉生産を重視する捕鯨が行われますが、最大漁場の西海では鯨油生産を重視する捕鯨が行われています。しかし捕鯨が継続されていく間に、西海漁場に接した九州でも鯨肉食が普及・定着していったようで、特に生月島のような捕鯨漁場では、内臓や軟骨を含む殆どの部位が食べられていた事が、天保3年(1832)制作の料理書『鯨肉調味方』から窺えます。
 近代捕鯨業の時代に入った昭和20年代も、生月島内では浦にあった鯨屋では冷凍鯨や塩鯨が売られ、鯨屋の奥さんは鯨肉を入れたテボを天秤棒で担いでイナカ(農村)を売り歩きました。当時の鯨料理として煎焼、皮身のユガキモン、膾、ヒジキのたきもの、煮膾大根、和え物、カレー、汁、立田揚、赤身の焼鯨、刺身などが日常的に食べられていました。鯨肉は、平戸瀬戸の銃殺捕鯨から供給された他、日本沿岸や南極海で再開されたノルウェー式砲殺捕鯨で取れた冷凍肉が流通していました。しかし商業捕鯨が中止された昭和62年(1987)頃、島内の店頭から一斉に鯨肉が消え、以来、鯨肉は正月など特別な行事の時に食べる高級食材になっていきました。
 島の館では商業捕鯨の再開を控えた今年の春、島内の小中学生を対象に鯨食の現状を調べるアンケートを行いました。まず「過去1年で鯨肉を食べた経験があるか」という問いに、274人中167人(61%)が「食べた事がある」と答えました。平戸市の学校給食では年1回鯨料理が出るので、実際には9割近くが食べている筈なのですが、鯨と思って食べていない人もいる事が分かりました。また食べた中で「1年のうちに何回鯨料理を食べたか」という問いには、1回が51人、2回が58人、3回が26人で、仮に1回を給食のみの経験だとすると、2回以上は111人で、4割の人が給食以外でも鯨料理を食べているようです。食べた場所を問う質問(複数回答可)には、学校が100人、自宅が96人、親戚知人の家が42人で、やはり学校給食が大きな役割を果たしている事が分かります。食べた料理(複数回答)については、立田揚げ(111人)、胡麻味噌絡め(49人※給食の料理)、皮身のユガキモン(42人)、刺身(42人)、膾(31人)などが挙がりました。そして最後に「鯨料理は好きですか」という問いに対しては、56人(20%)が「大好き」、97人(35%)が「少し好き」と答えています。一方で「嫌い」は50人(18%)、「どちらでも無い」は60人(22%)、「無記入」が13人(5%)でした。半分を越える人が鯨食を好きだと答え、4割が給食以外でも食べている状況は、旧捕鯨地の鯨食嗜好の名残りだと言えるのかも知れません。

(2019.12)

 




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