長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No.198「捕鯨漁場の理解」

生月学講座:捕鯨漁場の理解

 古式捕鯨業時代の鯨組が鯨を捕獲する海域は須く「漁場」と捉えられますが、鯨組が一漁期中、一定期間、捕獲活動を行う海域は〔小〕漁場と定義できます。例えば生月島周辺海域は江戸時代、御崎浦を拠点として操業する益冨・御崎組の〔小〕漁場になります。
 〔小〕漁場は、近接して同様の回遊環境を有する〔小〕漁場が存在する場合が多く、そうした〔小〕漁場が連接する範囲を〔中〕漁場と定義できます。例えば生月島の東には神浦のいさの浦を拠点とする、井元組その他の鯨組が操業した的山大島周辺〔小〕漁場があり、生月島と的山大島などを合わせた平戸諸島北部海域で〔中〕漁場が設定できます。
 さらにそうした〔中〕漁場を複数包括した、地理的、生態的環境を共通とする〔大〕漁場が設定可能です。〔大〕漁場の域内では、域内の鯨組の出漁や従事者の出稼ぎなどの活動や漁法の伝播が、一時的でない形で行われているのも特徴です。こうした〔大〕漁場として、古式捕鯨業の起源地とされる伊勢湾から紀伊半島沿岸にかけての海域に「紀伊半島周辺漁場」が、そこから漁法が伝わった高知県の室戸岬、足摺岬周辺海域に「土佐漁場」が設定できます。なお両者には黒潮を回遊する鯨を捕獲する漁場という共通性がある事から、両者を包括した「南海漁場」という枠組みも想定できるのではないかと考えます。
 漁場の範囲の問題がホットなのが、長崎県、佐賀県、福岡県、山口県の北部沿岸に広がり、日本海と東シナ海を往来する鯨が通過する対馬海峡域を範囲とする西海〔大〕漁場です。この漁場については、羽原又吉氏が『日本漁業経済史』で日本の古式捕鯨業地域として紀州藩、土佐藩、長州藩、九州北西海という四地方を設定して以来、東北部の長州北浦漁場を西海漁場と別個に捉える研究者が多く居られます。しかし羽原氏の区分は、「藩」と「海域」という枠組みを混用している点で問題があり、例えば鯨組の税について検討する場合には藩という括りは有効ですが、その場合九州側でも平戸藩や五島藩などの単位で検討比較する方が有効で、敢えて九州北西海という括りを設ける必要性は感じません。
  かたや北西九州の漁場群と長州北浦漁場の間の、鯨組の出漁や従事者の出稼ぎ、漁法の伝播について見ると、長い期間に亘って多くの交流がある事が認められます。北浦内で九州に最も近い角島周辺〔小〕漁場では、元禄年間の深澤儀平次組をはじめ九州組の入漁が断続的にみられます。川尻〔小〕漁場では元禄11年〔1698〕に網組を興した際、呼子から鯨船を購入しており、幕末~明治期には九州から羽指・水主を大量に雇用し、また川尻で行われた縄網や小型の双海船(網船)などの装備や漁法が、幕末以降、呼子の長須鯨対応の網掛突取法の改良に影響を及ぼした可能性があります。北浦東部の通・瀬戸崎〔小〕漁場については、紀州型の網掛突取法に近い漁法が行われ、従来、九州方面の影響は殆ど無いと考えられてきましたが、末田智樹氏の調査で文化3/4年漁期(1806/07)に、壱岐の前目・勝本の両漁場の土肥組独占に伴い締め出された益冨組が入漁している事実が確認されました。九州随一の鯨組である益冨組でさえ、状況如何で北浦東部まで出漁しているという事実は、北浦〔中〕漁場は西海〔大〕漁場を構成する一部として、独自性を有しつつも西海内の他の漁場と結びつきを持っていた事が窺えるのです。

(2020.1)




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