長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No.199「鯨唄とハザシ踊り」

生月学講座:鯨唄とハザシ踊り

 古式捕鯨業時代に鯨組の本拠地や操業地だった地域には、よく鯨唄が継承されています。鯨唄は歌詞に捕鯨に関する文言が織り込まれた唄で、基本的には締太鼓の拍子に合わせて男性が歌う「ヨイヤサ」形態の音曲です。鯨唄の多くは、かつて鯨組の操業の中で歌われた作業唄や祝い唄が起原で、前者には「ろくろ巻き唄」「骨切り唄」「椎皮叩き唄」「網の目締め唄」、後者には「祝い目出度(大唄)」「思う事叶う」「年の始め」「ハザシ踊り唄」などがありますが、近年はどこでもおしなべて祝い唄として歌われています。
 『張州雑志』には、捕鯨業発祥の地とされる尾張師崎の鯨取り達が、取った鯨の上に櫓と筵で座敷を作り、宴会をしながら「祝い目出度」系統の鯨唄を唄っている図が掲載されています。祝い唄は特に、組出し(出漁)、正月、組上り(終漁)など鯨組の操業の区切りとなる行事でハザシ(羽指、羽差、刃刺)踊りと一緒に唄われました。この踊りは、鯨唄に合わせて鯨船の指揮官であるハザシ達が踊るもので、西海系捕鯨図説にもハザシ踊りの場面が登場します。例えば安永2年(1773)制作の『小児の弄鯨一件の巻』(呼子系)では、大提灯を囲んだハザシ達が上半身を脱いで両手を上げて踊り、傍らで締太鼓が叩かれています。天保3年(1832)制作の『勇魚取絵詞』(生月島系)では、二丁の締太鼓と叩き手の周りを囲んでハザシ達が踊っていますが、奇妙な事に彼らはそれぞれ異なる手足の動きをしています。同じ唄に合わせて踊るなら姿勢は皆同じ筈です。そこでこの絵の中のハザシ達は、ハザシ踊りの一連の動きをそれぞれ表現していると思われます。重なる部分があるので完全ではありませんが、個々の姿勢を抽出して並び順でパラパラ漫画のように連続して見ると、実際に踊っているように見えました。
 『小児の弄鯨一件の巻』の「羽差踊の歌」には、「明日は吉日砧打」「砧踊のおんもしろや」という文句が登場します。砧踊り唄は踊りとともに、現在も紀州太地に伝承されていますが、踊り手は長さ45㌢程の小石を入れた竹筒(綾竹)を振りながら踊り、唄の歌詞に「明日は吉日砧打ち」「砧踊りは面白や」という文句が登場します。この唄は、江戸時代前期に小歌踊系統の砧踊りが太地付近に伝播し、その動作が、鯨を追う時に船縁を棒で叩く所作と似ている事から鯨唄として定着したのではないかと推測されています(『日本民謡大観』)。この唄はその後、紀州系突組や捕鯨漁民の進出に伴って西海に伝播したと思われ、『小児の弄鯨一件の巻』(小川島)の他、五島有川に伝承される「生唄」にも「あすは吉日、生唄打つハイヨ」「生唄踊りのサー、面白やハイヨ」という文句が存在し、生月勇魚捕唄の羽指踊唄にも「明日は吉日サー金太打つハイヨ」「金太ーや踊りは面白や」という文句が存在しました。
 太地の砧踊唄には「前のロクロ(轆轤)にカガス(綱)をはえて、お背美巻くのに暇もない」という、捕獲した鯨を轆轤という人力ウインチを使って浜に寄せる様子を表した文句もありますが、これも若干台詞を変えながら、佐賀県唐津市小川島の鯨骨切り唄、長崎県壱岐市芦辺の新造祝い、同平戸市生月島の勇魚捕唄一番唄、山口県下関市川尻の鯨唄、同長門市瀬戸崎浦の鯨唄、同通浦の大唄など西海各地の鯨唄に取り入れられています。(2020.2)




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