長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No.200「西海漁場内の鯨唄の伝播」

生月学講座:西海漁場内の鯨唄の伝播

  鯨唄の中には、西海(大)漁場の域内だけで確認できる歌詞を持つ唄があります。生月島の勇魚捕唄(三番唄)には「ヤー  親父船かよ  ヨイヤサー ヤレ  鞍馬の沖でよのーおー  サーヨイヤサー、ヤー采を振り上げ  ヨイヤサー ヤレ  ミトば サー  招くよのーおー  サーヨイヤサー、ヤー  ミトは三重張り  ヨイヤサー ヤレ  その側二重よのおー  サーヨイヤサ」という歌詞があります。また生月島の益冨組が主要漁場とした壱岐に伝わるはざし唄には「親父船かよ 半に寄せよ 子持ちは寄りて来る はなげの沖よ 采を振り上げて イヨ ミト招く ミトは八重張り その脇ゃ二重 沖の手張りはみな一重」という歌詞があります。一方、佐賀県唐津市呼子小川島の鯨骨切り唄には「アー親父船かや  ソーライ  万崎沖でー 采を振りゃげて  ソーライ  ミト招くよ(中略)、ミトは三重側 その脇ゃ二重 背美の子持ちは逃がしゃせぬよ」という歌詞があり、小川島で操業した中尾組が入漁していた平戸島津吉浦(前津吉)の鯨唄にも「親父船かよ  お山の沖に ヨイヨイ 犀を振りゃげて  網戸(ミト)招く  ヨイヤサ、網戸は三重側  その脇ゃ二重  ヨイヨイ あだの端切りゃ一重側  ヨイヤナよ」という歌詞があります。さらに五島有川に伝わる神戻りの歌には「おやじ船かなズイノーヨー  野首の沖で 采を振り上げ  ノーヤ  みとまねく、みとは三重がわズイノーヨー  そのわきゃ二重 のがしゃせまいぞ  ノーヤ  座頭の鯨」という歌詞があります。これらの歌詞は地域によって、網代の名称や鯨種などに違いはあるものの、基本的な部分は共通しています。
 これらの歌詞で表現されているのは、三組(三結)の網を左右にずらして張る、西海漁場において創作発達した西海式網掛突取法の網張方法です。ちなみに歌詞の中に登場するミトとは鯨網の中央部分を指す名称で、網の上部には浮きとして桐の木で出来たアバ(浮き)が並んで付けられていますが、特にミトの部分にあるアバはミトアバという、突起がある特別な形の物で、信仰の対象にもなっていました。ちなみに呼子で5月の節句に行われる大綱引では、綱の中央に作られた藁を筵で包んだ膨らみをミトと呼んでいますが、これは鯨網をはじめ漁に用いる網の中央をミトと呼び、イオドリ(最終的に魚が溜まる部分)があるミトを引き寄せる事が福を呼ぶ事に繋がるという意識に由来すると考えます。
 さて、そもそも網掛突取法は延宝5年(1677)に紀州太地浦で発明されたのですが、紀州や、紀州から同漁法が伝播した土佐では、鯨網を鯨を包囲するように張り回す方法が採られました(紀州式網掛突取法)。一方、紀州の同漁法を参考にして西海漁場で成立した西海式網掛突取法では、鯨の進行方向の中央に長大な鯨網を弓なりに張り、その後ろに左右にずらして二組の鯨網を弓なりに張るスタイルを採っています。そのため網の中央は三重に網が重なり、その左右は二重の網、一番外側は一重の網がある事になります。
 歌詞が西海式網掛突取法の網張方法を反映しているならば、この歌詞が成立・伝播した時期は、西海漁場に網掛の過程が導入された延宝六年(一六七八)以降という事になります。またこの歌詞が伝わる地域はいずれも西海式網掛突取法が伝播した地域で、例えば西海(大)漁場内でも紀州式網掛突取法が直接伝播したと思われる長州北浦(中)漁場では、この歌詞の鯨唄は確認できません。こうした状況からこの歌詞は、西海式網掛突取法という技術に関連する文化要素だと捉えられます。(2020.3)




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