長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No.201「田辺輝司さんと平島」

生月学講座 田辺輝司さんと平島

  今年2月の終わり、生月島舘浦の漁師・田辺輝司さん(昭和11年生)が操業中にお亡くなりになりました。田辺さんには、平成20年の7月に金子館長とともに田辺さんの漁船で五島灘の平島(西海市)に連れて行っていただいた事があります。田辺さんが平島行きを思い立たれたのは、平島の黒崎という場所が田辺さんの生まれ故郷だったからです。
  快晴の五島灘を快走する田辺さんの船は、2時間程で平島の黒崎の前の入江に着きましたが、そこには船着き場は無く、載せてきたゴムボートで岩場に上陸しました。3人で集落があった場所を歩き回りましたが、家も畑も生い茂る森や竹藪に埋もれ、各所に残る廃墟や石垣、貯水タンクの存在で、かろうじてここに村があった事が分かりました。
 後で田辺さんから伺った話では、黒崎の実家はかくれキリシタン信仰に帰依していて、黒崎には同信仰の組が2~3組あったそうです。日曜日には信者が寄って日どりを確認し、それに従って実施する作業なども決めていて、「今日は日が悪く、肥やしが撒けんけん、麦はつくらん。芋を掘る」などと言っていたそうです。また家の中には神棚、仏壇、荒神様の棚も祀っていましたが、それらを祀りに来る専業宗教者は居らず、子供の初宮(詣り)や祭の時には島の南側の本村にある神社(豊姫神社)にお参りしていました。また葬式の時には、檀那寺である本村の浄専寺から僧侶が来ましたが、棺の中に僧侶が入れた品物は僧侶が帰った後で取り出し、代わりにかくれキリシタンの品物を入れていたそうです。また田辺さんの祖父は西彼杵半島西岸の外海地方の大野の出身だったそうで、田辺さん自身も後年大野に行かれ、遠い親戚にあたる家などを確認された事があるそうです。
 田辺さんが亡くなられた後、五島市で開かれた長崎県かくれキリシタン信仰具調査事業の検討委員会に出席した際に、県世界遺産課の川口補佐から、従来未調査だった平島にもかくれキリシタン信者がいる(いた)のか尋ねられました。そこで平島にもかくれキリシタン信者が居た事を、田辺さんから伺った話を元に説明しました。さらに、同調査の関連で行われた長崎市外海歴史民俗資料館での信仰具調査に参加した際、外海地方でかくれキリシタンの研究やガイドの活動をされている松川隆司先生から、外海の大野集落のかくれキリシタン信者は早くに組織が弱体化していて、お授け(洗礼)を行う時には平島から水方(洗礼を行う役職)を招いてやって貰っていたという話を大野で聞かれた事を伺い、平島と大野との関係を再確認する事ができました。
  江戸時代の外海地方のかくれキリシタン信者は、大村藩領と佐賀支藩の深堀領に分かれて居住していました。そのうち大野が属する大村領の信者は、江戸時代後期以降に五島や黒島、平戸島西岸、東松浦諸島に大勢移住しています。実は世界遺産登録に先行して長崎市の依頼で外海地方に調査に入った時、深堀領ではかくれキリシタン信仰の組織や信仰内容が比較的よく残っていたのに比べて、大村領では早期に組織も信仰内容も弱体化していた状況を確認していました。そこで私は、大村領では信者の主力が移住したため、外海に残った信者の組織や信仰が弱体化したのではという仮説を立てたのですが、田辺さんや松川先生の話から、現住地の大野と移住地の平島の関係性が見えてきたように思います。(2020.4)




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