長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

平戸史再考No.001 平戸「城下町」の再検証

平戸‘城下町’の再検証

 

 生月町で学芸員としての仕事を始めた時から、平戸という町の性格については、政治や経済、文化など様々な分野における歴史的な検証が必要だと考えてきた。この場合の平戸とは現代の平戸市・旧平戸市や平戸島という広い範囲では無く、平戸島北部の平戸港周辺に発達した町を指す。この平戸の町は遅くとも室町時代には平戸松浦氏の本拠となり、以後生月島を含む北松地方の政治的・経済的中枢として機能し、現在も平戸市役所が所在して政治的機能を継承している。平戸の周辺への影響について生月島を例に上げると、江戸時代初期には平戸松浦氏が禁教政策を採った(それは徳川幕府より15年先行する)事で、生月島や平戸島西岸の住民はキリシタン信仰の秘匿を余儀なくされた事や、江戸時代中期に捕鯨業を興した益冨組の税金や御用金が、平戸藩庁の財政を助け、文化の伸張にも影響を及ぼした事などが挙げられる。

 平戸松浦氏は平戸に領主の居所と統治機関を置いたが、平戸の町の対岸の亀岡に築かれた平戸城は、法印公が慶長4年(1599)に築いた当初の意図は別として、江戸時代を通し専ら平戸藩の統治のシンボルとして存在した。それは他の近世城郭も同じで、壮麗な天守閣(注:天守閣とは近代の俗称で、学術用語としては本丸天守)など、火器が発達した近世戦時では無駄に標的となるばかりで、平時には倉庫程度にしか役立たなかった。しかも平戸(日ノ岳)城の場合、建設途中の慶長18年(1613)に炎上しており、天守を作る予定があったのかも不明だが、土台となる天守台も確認されない事から、構想も無かったと考えるのが妥当である。その後享保3年(1718)に亀岡城として再築工事が行われた際にも本丸には天守は作られていない。おそらくは天守なんぞ作ったら維持経費が掛かるばかりなので作らなかったと思われる(二ノ郭にあり御殿に近い乾櫓が天守の代用だったのかもしれない)。そうした史的状況にもかかわらず昭和35年(1960)本丸に天守閣が建設されたのは、当時日本各地で天守閣の再現がブームだった事や、当時の平戸が観光で繁盛していて観光の拠点としての用途が見込まれたからだと思われるが、実際には無かった天守を作ったのは、来場者に誤った平戸城の印象を与える点では明らかに誤策である。

 今日も、平戸の町から対岸に仰ぎ見る天守閣の偉容は、城下町としての平戸を否応にも強く印象付ける。しかしそのように、平戸の町=城下町というイメージで特徴付けられる事には強い違和感がある。平戸城と同じく近世の城郭建設に伴って確立した島原の城下町は、平地の中央に築かれた島原城の周囲の平地に武家屋敷が展開し、さらにその外側に町人町が展開しているが、同様の配置を持つ城下町は全国各地で確認する事ができる。だが平戸の場合、港の周囲に町があり、その周囲の丘に城や武家屋敷が存在しており、町の中心に城がある訳ではない。中心はあくまで港で、城や武家屋敷は最外郭に存在している。もし島原などと同じ構成の城下町を領内に作るのなら、少しでも広い平地がある佐々川や相浦川の下流域を選ぶ方が理に叶っている(実際、平戸松浦氏と対峙した相神浦松浦氏は後者に城を設けた)。

 平戸松浦氏は、あえて近世城下町が設けにくい場所を選んで城を設けたのである。それは、平戸が近世城下町のような「城ありきの町」ではなく、「最初に町ありきの城」だったからだ。まず最初に平戸という町があって、そこを平戸松浦氏が重要視したがゆえに本拠とし、後から城を作ったのである(法印公による亀岡の占地については町とは別の意図があるのだが、それについては別の項で触れる)。町を巡る丘陵上に家臣団の屋敷が設けられたのも城が出来た後だった。何故平戸の町が重要視されたかだが、それは平戸が海外貿易が行われた港市だったからだ。

 戦国から江戸時代初期にかけて、平戸は中国、ポルトガル、オランダ、イギリスなどを対象とする海外貿易港として、国内並ぶ所の無い隆盛を誇った。海外貿易船が入港すれば、入港税や船の停泊料の他、取引などに関して様々な利益が見込まれた。その利益は莫大で、戦国時代には海外貿易船が一隻入港すると、戦争が一回出来ると言われる程だった。平戸の港と町が生み出す利益は、その他の領内の農地などが生み出す利益を遙かに上回る規模であり、それ故平戸に本拠を置く必然性があったのである。

ただ軍事的に捉えた時、平戸の町と港を城で守る事は、地形的に非常に困難だった。江戸初期には、遠方を攻撃できる大筒や銃の登場や、大規模かつ強固な築城を可能とする織豊系城郭技術の導入で、城が持つ防御・攻撃能力はある程度高まったが、中世の城郭や兵器のレベルでは平戸を守るのが困難だった事は、永享6年(1434)の白狐山の戦いや、延徳3年(1491)の峯の乱の結果が物語っている。船での進入は海峡水軍や沿岸からの射撃で何とかなるが、平戸の周囲はなだらかな丘が続く地形のため、海峡を渡って平戸島に上陸した軍勢が、陸伝いに平戸に到達するのを防ぐのは困難である。史実からも、平戸城が(築城当初はさておき)近世という戦が無い時代の所産である事が窺える。

平戸の町は、オランダ商館があった寛永18年(1641)までは海外港市としての機能を維持していたが、商館の長崎移転後は次第に性格を変える事になった。例えば海外貿易の長崎移転直後には一定量(十丸)の輸入絹糸が平戸町人に配分されたが、明暦2年(1655)には糸割符制度の停止に伴い廃止されている。また国内海運において、平戸瀬戸は依然、瀬戸内海と長崎、九州中南部を結ぶ航路上の要地だったが、潮待ち港の機能は概ね北の田助に移っていく。他方、江戸時代の平戸は産業拠点としての性格も有した。例えば貿易商を兼ねた平戸町人が経営する突組による捕鯨業は、海外貿易が継続している寛永3年(1626)に開始され、17世紀中期には多数の突組が操業し西海捕鯨業の中核をなしたが、突取法から網掛突取法への移行は上手く行かず、元禄期に平戸系突組の操業は休止する(『平戸手鑑』)。その後も享保期には山口屋による捕鯨や鮪定置網の経営が行われ、18世紀末頃から19世紀前期には町人の中に鮪定置網の経営や鮪の商売に関係する者がいた事が、司馬江漢の『西遊日記』や、『平戸六町図』『平戸咄』などから確認できる。しかし漁業による利益はかつての貿易から得られた利益に比べれば小さなもので、平戸の町の経済規模は、平戸藩の藩政やそれに携わる藩士の消費の他、藩域内の需要に対応する職人や商人等の活動が中心の限定的なものとなっていく。太田諒一氏によると、平戸藩も海外貿易移転後の衰退に伴い、他国町人の誘致や商業行為の奨励、商漁業の振興を図って年貢米市場を確保したとされる(「平戸城下町の概要」)。但しそうした城下町期の商人には、周辺の住民達に対し「売ってやる」的な意識が強かったようで、『平戸咄』には「総じて商人の心得は、(買う方を尊重する)江戸や上方と異なり売る人と買う人が同等の心持ちで、売り声などは「何売ろう」と言う」と記されている(この意識はその後も平戸の商業発展のウイークポイントになったと考える)。

明治維新後も、平戸は地方行政の中心として機能するが、明治19年(1886)には佐世保に海軍鎮守府が設けられ、佐世保が軍都として急速に発展する。また北松本土各地では炭坑が数多く操業するようになり、的山大島、生月島、田助、薄香、鹿町などで鰯巾着網が盛んになる。そうした変化で平戸の経済的ポテンシャルは相対的に低下するが、周辺地からの買い出しなどに対応する商店街的機能は近世から継続する。他方、戦後になると観光面の比重が大きくなる。その観光では寺院と教会やジャガタラ文に代表されるような海外交流の要素と共に、城下町のイメージが重視され、それに伴い平戸城の整備が行われたのは前述の通りである。

ただ観光面のイメージ形成として城と城下町を正面に打ち出すためには、それをアピールするのに足る十分な価値付けが無いと期待薄だ。城下町というカテゴリーで括られる町は日本中に数多くあり、なかには萩や津和野のように近世城下町の佇まいをよく残した所も数多く存在する。城下町のシンボルとなる城郭に天守など往古の建物等を残す所も松江や姫路、松本などいくつもある。他にも石垣や縄張り(城の配置)を売りにする所が近年たくさん出てきている。だから城として平戸をアピールする場合にも、他とは異なる平戸城の特徴を学術的な検証の上に立ってきちんと示さねばならない。本来無かったイミテーションの天守など却って邪魔になる。

しかしそれ以前に、あまたある城下町の一つとしてより、国内随一の海外貿易港市であった点を強調した方が遙かにアピール力がある。但しその場合も海外港市としての平戸の歴史は、過去認識されてきたような戦国~江戸初期のみに留まらず、遅くとも博多と明州(慶元、寧波)の間に定期的な貿易船の往来が始まった9世紀頃までは遡るので、その期間は800年にものぼる。対して城下町がメインの平戸の歴史なぞ270年に過ぎない。まして人を寄せる魅力も無い城下町意識なぞせいぜい周辺相手の見栄に過ぎず、加えて経済力も無いとなるとただの空威張りなのが現実だ。平戸の本当の魅力はもっと他にある。 (2020.4 中園記)




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