平戸史再考No.002 港市平戸の実相
- 2020/05/08 16:23
- カテゴリー:平戸史再考
平戸史再考 港市平戸の実相
平戸が海外貿易を行う港町であるという認識は以前から存在した。例えば昭和62年(1987)に平戸市文化協会が刊行した『平戸城下町』で太田諒一氏は、「平戸という城下町は外国との交通や貿易により突如として発達した特殊な町である」と記している。平戸については港町と城下町という二つのイメージが並存してきたが、天守閣を含む城の「整備」が行われた事も影響してか、近年は城下町イメージの方が強くなっている印象がある。
筆者が平戸の町の性格について考えるようになったのは、生月島のかくれキリシタン信仰を生んだ平戸地域のキリシタンの歴史を知るために、キリシタン信仰を受容した当時の平戸とポルトガルとの貿易関係について理解する必要が生じたからだった。そのためにまず、当時宣教師が記した書簡から平戸に関する記述を抜粋し、時系列で起きた出来事を把握していったが、その頃ちょうどキリシタン布教期の平戸の貿易と信仰の関係について考察した好著に出会った。それが弘前大学教授(当時)の安野眞幸氏が書いた『港市論』(1992年刊)で、この本で初めて「港市」という用語を知った。安野氏によるとこの学術用語は南・東南アジア史でよく用いられてきたが、単なる港町と異なるのは、港町が漁業と貿易の両方の機能を包括しているのに対し、港市は専ら貿易のみを行う港町と規定されている点にある。安野氏は、港市は様々な商品が自由に交易され、宗教を含む思想も自由に保持される場所だとした上で、当時の平戸は港市だと説明したのである。
それに加えて港市としての平戸の認識を新たにする発見がいくつかあった。その一つは薩摩塔の発見である。以前から安満岳の奥の院や志々伎山の中宮跡付近に、中国風の武神像の彫刻や徳利型の部材を持つ特異な石塔がある事は知られていたが、優美な形状から漠然と近世以降に作られたものでないかと考えられてきた。しかし同じ形式の石塔が博多周辺や鹿児島県南西部の薩摩半島に多く分布する事が分かり(このため「薩摩塔」と呼称されるようになった)、それらが13~14世紀頃に中国の寧波(ニンポー)近郊の梅園石で作られた中国製の石塔である事や、日中間の硫黄貿易に関する商業や航路に関する要地に奉納されている事が明らかになってきた(これについては別項で詳しく紹介する)。また、平戸のポルトガル貿易の時に交易の場となった宮の前に祀られていた七郎宮の祭神が、実は中国の宋~元代に盛んに信仰された航海神「招宝七郎」である事も、二階堂善弘氏の研究で明らかになった。『平戸城下町』で太田氏は「ポルトガル船入港以来唯一の貿易港として栄えに栄えた平戸港は九十余年の外国貿易の歴史を閉じ昔の静けさに返ったのである」と、平戸の海外貿易時代を戦国~江戸初期の約90年とする認識を示していたが、新たな知見は、平戸の港市としての歴史はそれより遙かに古く長い事を示していた。
こうした平戸を巡る新たな理解や知見を共有しながら、海外貿易港としての平戸の特徴を明らかにする必要を感じた筆者は、「平戸-海外に開かれた自由な港市」というシンポジウムを平成22年(2010)11月に開催する事にした。これについては、ちょうど整備途上だった平戸オランダ商館施設の展示に、新しい知見を反映させる必要があると考えたからでもあった。
シンポジウムでは、最初に平戸についての基本知識をパネラーや会場の方に知ってもらうため、地元で調査・研究にあたる4人が報告を行った。久家孝史氏(松浦史料博物館)は平戸の中国貿易について、浦部知之氏(平戸城)は平戸を支配した平戸松浦氏について、中園成生(島の館)は平戸地方のキリシタンの動向について、赤木寛氏(平戸市文化遺産課)は平戸オランダ商館と付帯施設の発掘調査の成果について報告した。
シンポジウムのパネラーには、海外交渉史、貿易経済、宗教など様々な分野で研究をされている第一線の先生方に御登壇いただき、最初に発表していただいた。世界各地の対外交渉を研究されている羽田正先生(東京大学)にはコーディーネーターをお願いしたが、「世界史の文脈から考える平戸」という発表のなかで、インド洋の港市で様々な宗教が並存し様々な言語が交錯する状況を紹介しながら、平戸も同様の自由な港市だったと指摘された。次に発表された『港市論』著者の安野眞幸先生(聖徳大学)は、ザビエルと平戸の関係に焦点を置きながら、船宿が来航者の宿所となるだけでなく積荷の保管や商売の仲介にも当たっていた事を示された。日蘭貿易を研究されている鈴木康子先生(花園大学)は、平戸オランダ商館で商取引や交渉に当たった商館長達を人となりも含めて紹介された。信仰史を研究されている藤田明良先生(天理大学)は、媽祖などのアジア海域の航海信仰を紹介し、平戸における事例として七郎宮を取り上げた。最後に平戸オランダ商館の展示計画に携わる前田秀人氏(平戸市文化遺産課)は、蘭英商館設置期の平戸や海禁(鎖国)の状況について発表した。
その後のディスカッションでは、平戸という港市における「自由」を巡って、貿易に関与する人々の宗教の共有や言葉の問題、戦国期に伝来したカトリック(キリシタン)の他宗排斥という特異な様相とその影響、外国人や国内他地域の人々の自由な居住、商館設置の様相など様々な話題が呈示され、それらについての活発な議論が展開された。結果として報告や発表も含めて大変エキサイティングで濃密な時間を共有するなかで、港市平戸の様々な様相を知る事ができた。その成果は報告集『平戸―海外に開かれた自由な港市―』に纏めているので、興味を持たれた方は図書館で閲覧していただければ幸いである。
シンポジウムで明らかになった最も重要な点は、港市としての平戸が有した「自由」である。それは来航者の生命や財産が保証され、彼らが町の中を制約なく歩き回り、信じる宗教を信じられるという意味での自由だが、徳川幕府の身分的政治的秩序に縛られ交流人口も限られた城下町期の平戸とは全く異なる様相だった。またこうした港市の自由はアジアやインド洋、地中海世界などに展開する多くの港市と共通するあり方だったが、それは「鎖国」と呼ばれた徳川幕府の海禁体制下の長崎の管理貿易的な様相とは異なるものだった。そしてこうした平戸の自由な港市としてのあり方は、オランダやポルトガルとの貿易以前の中世の中国貿易期まで遡る事が、発表者・報告者の中で一致した認識であった。なおディスカッションの中で羽田先生が、オランダのアジア地域の貿易は本質的にアジア各地の商品をオランダ船で運ぶ形態だった事を指摘した上で、平戸オランダ商館復元施設の展示のあり方について質問されたが、実際の平戸市による商館展示構想の重点は、オランダ(ヨーロッパ)との交渉に置かれてきた点は否めない。その根底に近代以降の日本人が呪縛されてきた西洋優越主義があり、西洋と繋がる事をステータスだと捉える心理が作用しているようにも思えるのだが、それに拘る限りは、規模的、予算的、観光立地的な差があり、オランダ貿易や外交についての研究の蓄積も豊富な出島の二番煎じという域は越えられない。
平戸オランダ商館が出島と異なる点は、商館施設が堀に隔てられず地続きの街中に設けられ、日本家屋と様相が異なるヨーロッパ風の建物が堂々と建てられていた点だが、これは港市平戸の「自由」というファクターを抜きには考えられない。その点で平戸オランダ商館復元施設は、単なるオランダ東インド会社の商館施設という意味付けに留まらず、港市平戸が有した「自由」の象徴として、港市平戸が海と歩んできた悠久の歴史を紹介するのに相応しい施設だと言える。そこに留意しながら展示を組み立てれば、対象とする時代や地域、テーマの幅を広げ、展示内容を豊かにする事が可能となる。その場合の展示の主役は、港市平戸そのものである。
最後に、そのような港市としての平戸をイメージするために是非見ていただきたい絵画を紹介したい。それは北九州市戸畑区の西日本工業倶楽部という洋館に飾られている『海の幸』である。和田三造画伯が大正7年(1918)に制作したこの絵には、海外貿易で繁栄する平戸の町の喧騒と港の賑わいが巨大な南蛮更紗の画面一杯に描かれている。港にはオランダ、ポルトガル、中国、日本(朱印船)など様々な大船が浮かび、町には洋風の商館や和風の教会が建ち、様々な国から来た様々な服装の男女が溢れんばかりに行き交っている。道には「ありえへん」ものまで歩いているが、それは皆さんに実際に確認してもらいたい。この絵の喧噪と混沌と自由のエネルギーに溢れた町の姿こそ、私が心の中で思い描いた港市平戸の姿そのものだ。もう一度このような賑わいを復活できないものか、そう思いながら絵を見続けているうちに涙が出てきたのを覚えている。
(2020.5 中園記)









