長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

平戸史再考No.003 平戸瀬戸を行き交った船

平戸史再考 平戸瀬戸を行き交った船

 

 平戸はそもそも何故、海外貿易港になったのだろうか。平戸は地勢的に見ると港として決して好適地だとは言えない。平戸港は、平戸島と九州本土の間にある平戸瀬戸に面しているが、この瀬戸は最狭500㍍程の海峡が3㌔にわたって続き、干満に伴って6ノット程の早い潮流が流れている。平戸に入港する場合は、狭い海峡に乗り入れ、暗礁や小島に注意しながら潮流を上手く乗り切って入らなければならない。とりわけ櫓や櫂、帆走に頼る近世以前の船の場合、そのような瀬戸はとにかく通過して、停泊が必要な場合は瀬戸の外にある入り江を利用するのが無難だ。現在でも、瀬戸の南にある川内沖などでは、潮待ちをする内航船の姿をよく見かける。瀬戸の真ん中に位置する平戸が海外貿易港になった事には、自然条件以外の何らかの必然性があったと考えねばならない。

それを理解するためにはまず「航路」というものについて考える必要がある。航路とは船が通行する海や湖の上のルートの事だが、そもそも海は陸の道と違って平面的に広がっているので、船はどこを通っても問題ないように思われがちだ。例えば中世に九州北西沿岸に割拠した小豪族の連合体である松浦党は、朝鮮や中国の沿岸に渡って海賊行為(倭寇)を行っているが、その場合それぞれが根拠地とする場所から中国や朝鮮の襲撃対象まで海を真っ直ぐに横切って向かったようなイメージを持たれがちだ。だが実際には、定まった線上の海域(航路)を移動して朝鮮半島や中国大陸に到り、その後沿岸沿いの航路を移動して襲撃地に至ったものと思われる。

現地人の案内も望めない未知の海域をはじめて航海する場合には、当然ながら航路というものは存在しない。その場合船乗りは、未知の岩礁や危険な潮流に細心の注意を払いながら慎重に船を進めなければならない。また航海の途中で、休息のために船を停泊・引き上げたり、水・食料・物資を補給する場所(港)を確保する必要も生じる。港の条件としては、風や潮流の影響を受けず、船を安全に停泊できる水深や広さの水域があり、真水を補給できる井戸や川が近くにあって、食料や必要な物資を供給可能な場所である事が必要だが、加えてそこの住人が好意的かどうかも重要になる。さらに船が何らかの品物を運んでいる場合、品物の売却や、新たな品物の購入・入手が可能かも条件に加わる。

最初の船がルートや港の情報を無事に持ち帰ると、次にそのルートを航海する船はその情報を活用しながらさらに情報を蓄積し、さらに次の船、次の船と繰り返し蓄積していく事で、そのルートを安全に航海する確率は増していく。こうして海の上に、船が頻繁に利用する一筋のルートが出来てくる。それが航路である。とりわけ船が人や荷物を運ぶことで売却益や運賃の利益を得る場合、未知の海域を進むのならば、遭難で人や荷物、船を失い損失を被るリスクは高くなる。対して、危険が予測可能な航路を利用すれば、安全に人や荷物を目的地に送り届ける事ができ、安定的に利益を得る事が保証される。船が航路を外れて航海する事は、基本的にはあり得ないのである。

ただ同じ海域でも、船のサイズや推進方法、性能によって航路のあり方は異なる。江戸時代の海を描いた地図などを見ると、港と港を結んで弓なりの線で記された航路が、沖合と岸近くなどに複数ある場合がある。これなどは船のサイズや航法で異なる航路が存在するためである。日本列島で近世以前に造られた木造船は総じて「和船」と呼ばれるが、その造り方は西洋の木造船とは大きく異なる。和船は、船底に航(かわら)という板材を置き、前に水押(みよし)という柱材、後ろに戸立(とだて)という板材を付け、両脇に長い板材を片弦あたり1~4枚付けて、両弦の間に船梁という横断材を挟んで形を作るという、言うなれば昆虫のような外骨格の構造を持つ。和船を大型化する場合には、各板材を複数材釘で繋いで大きくして対応する。西洋船の場合には、まず船底の柱材(キール)を置き、前に1本の船首材を斜めに立て、キール上の両弦に肋骨材を並べて取り付けて船の形を作り、それに細い外板を並べて張っていく(船尾も肋材間に平面に張って作る)。西洋船の大型化は、船底材と船首材、肋骨材などの骨組みを大きくする事で達成される。

江戸時代の和船には、一人で櫓を押して進む天満船から、数百㌧の荷物が積める千石船(弁才船)まで大小様々なものがあるが、前述した和船の基本構造が完成したのは室町時代と考えられている。それ以前の古代から中世にかけての日本列島で、どのような船が使われていたか知るのに格好の資料がある。それは奈良時代に成立した歌集『万葉集』である。万葉集の中の海に関して詠まれた歌を分析すると、主に「小舟」「大船」「四つの船」という3つの船種が確認できる。※以下( )内の数字は、新編日本古典文学全集『万葉集』(小学館)記載の歌の番号である。

『万葉集』の多くの歌では、「海人(あま)」と記される海民の漁の様子が紹介されている。海人が使う船は「小舟」と書かれる場合が多く、なかには「棚なし小舟」と、甲板を持たない規模の小船だと記された例もある(272、930)。小舟の推進方法は「漕ぎ出らし」「梶の音聞こゆ」(930)とある事から、舵を兼ねる練り櫂が用いられたと思われる。小さな船ゆえ「風をいたみ沖つ白波高からし海人の釣船浜に帰りぬ」(294)と、時化になれば直ぐに帰らなければならないが、「島伝ふ足速の小舟風守り」(1400)と小舟の航海は風に左右され、「水霧らふ沖つ小島に風を疾み船寄せかねつ心は思へど」(1401)と風が厳しい場合には、船を岸に寄せられない状況が窺える。

 次は「大船」だが、そのなかには「百積の船漕ぎ入るる」(2407)という表記から大量の積載量を誇る船もあった。「四方の国より奉る御調の船は 堀江より水脈引きしつつ」(4360)と詠まれているのは、難波の海に諸国から集まった調を運ぶ船が、難波の堀江という運河を進む様子だが、これらの船も大船と思われる。

大船の航行は「漕ぎ出でな」(8)等々の記述がある事から櫂を用いたと思われる。また大船の出港時の表現に「大船に真梶貫き下ろし」「我が漕ぎ行けば」(366)、「大船に真梶しじ貫き」「磯廻するかも」(368)、「大船にま梶しじ貫き漕ぎ出なば沖は深けむ潮は干ぬとも」(1386)などとある事から、櫂で推進力を得ながら船尾舷側の真梶(舵櫂)で方向を制御した事が窺えるが、『万葉集』の歌においては、大船の帆走の記述は無い。なお「さ丹塗りの小船を設け玉巻きの小梶しじ貫き」(1780)と、小舟でも貴人を乗せる特別な船の場合、大船と同様の真舵を用いた例もある。大船の航海も「島伝ひ敏馬の崎を漕ぎ廻れば」(389)とあるように基本的には沿岸航行だったと思われ、瀬戸内海西部の時によって変化する潮を詠んだ歌(388)もある事から、良い潮流を選んで航海した事が分かる。潮流が早まる瀬戸は難所で「粟島に漕ぎ渡らむと思へども明石の門波いまだ騒けり」(1207)とあり、また瀬も脅威で「大船を漕ぎのまにまに岩に触れ覆れば覆れ妹によりては」(557)という歌があるが、瀬を避けて沖に出ても風で岸に寄せられる事もあり、「海の底沖漕ぐ舟を辺に寄せむ風も吹かぬか波立たずして」(1223)という歌もある。但し「大船を荒海に漕ぎ出でや」(1266)と、荒天時の航行も時に行われたようだ。

 大船が停泊する港は「泊(とまり)」と呼ばれ、「百船の泊つる泊りと百船人の定めてし敏馬の浦は」(1065)「神代より千船の泊つる大わだの浜」(1067)などとあり、よく利用される港が存在した事が分かる。なお停泊時には「大船のたゆたふ海に碇下ろし」(2738)とあるように碇を用いている。

天平8年(736)の遣新羅使の船も、「大船に真梶しじ貫き」(3611)と表現されている事から、朝鮮海峡を横断して朝鮮半島に渡る航海の場合にも大船が用いられている事が分かる。また対馬を含めた西海で防備に就く防人についても、「難波の御津に 大船にま櫂しじ貫き 朝なぎに水手整へ 夕潮に梶引き折り率ひて 漕ぎ行く君は 波の間を い行きさぐくみま辛くも 早く至りて」(4331)という防人の歌があるように、諸国から大船に乗って難波の海に集結し、そこから船団で櫂をこいで西海の任地に向かっている。

最後の「四つの船」とは遣唐使船の事である。天平4年(732)の遣唐使船に関しては、「そらみつ大和の国は 水の上は地行くごとく 船の上は床に居るごと 大神の斎へる国そ 四つの船 船の舳並べ 平けく早渡り来て 返り言奏さむ日に 相飲む酒そ この豊御酒は」(4264)という歌が詠まれている。「四つの船」とは遣唐使船は4隻1船団で派遣された事に由来する表現だが、水の上は大地の上を行くが如く、船上は家の床と同じように感じられる、安定した航海だと表現されており、遣唐使船の航海の現実を知らない貴族の希望的表現である点も否定はできないが、巨船故に、陸上の如き安定感があると強調されたものと思われる。

 『万葉集』に登場する「小舟」「大船」「四つの船」という三つのカテゴリーに属する船達は、中世以前の長い歴史の中で平戸瀬戸を往来している。次回からはこの三つの船のカテゴリーに依拠しながら航路の歴史を辿っていきたい。   (2020.6 中園記)




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