長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

生月学講座No.204「船引場と港の整備」

生月学講座 船引場と港の整備

 生月島東側の海は、平戸島北岸から白岳半島、度島、的山大島と続く海岸線と、生月島の東海岸が囲んで北に向かって開いた袋状の入り江(生月湾)を形成しています。この入り江では鯨、鮪、鰤などの回遊魚が滞留し、秋の北風が吹く時期にはアゴ(飛魚)やシイラなどの表層魚が湾奥に集まる豊かな漁場で、江戸時代以降、当時最大の漁業形態である網掛突取捕鯨や鮪大敷網を始めとする様々な漁業が行われてきました。
 この恵まれた海域の弱点は、生月島の東海岸には深く入り込んだ入り江が無いため、漁船を係留するための港が限られている事でした。しかし櫓漕ぎや帆走で航行する小型(全長15㍍以下)の木造漁船(和船)が主流だった大正時代以前には、その弱点はそれ程問題ではありませんでした。舘浦や壱部浦の海岸には砂浜が延びていて、漁船はそこに引き上げれば済んだからです。逆に言えば、船を容易に引き上げられる砂浜があったからこそ、舘浦や壱部浦は海村として成立できたのです。江戸時代になると、浦内や鮪定置網の納屋前には、多少波立つ時にも船を泛水・着岸させられるように、一本ないし対向する形(ハの字形)で二本、短い石積みの突堤が設けられています。これらの突堤を築いたのは、石積みに不向きな海岸の転石を利用する高度な技術を有した島の農村部(元触、山田正和など)の住民達で、彼らは島外にも進出して干拓地の堤防や港の突堤の築造に当たっています。例えば北松浦半島鹿町にある深江新田の文化6年(1809)の築造時には、長さ1800間(3240㍍)もの締切堤防を施工し、文政6年(1823)には山口県下関市安岡港の突堤を元触在住の「生月石工甚蔵」が築造しています。なお彼ら積石工達はかくれ(潜伏)キリシタン信者で、自らが持つ技術で役立つ仕事をして経済的に力を付けながら、かくれキリシタン信仰を継続しています。
 舘浦の海岸は、大正時代以前は長い砂浜が弓なりに伸びていて、平時は砂浜に船を引き上げ、荒天時には「船引場」という集落内の広場や道路に船を引き上げて守りました。現在、舘浦漁協前には、集落を分断する形で空き地が奥に延びていて、公園などに利用されていますが、そこはもともと船引場として利用されていた空間でした。しかし船にエンジンを搭載して動力化すると船体は重くなり、船底にはスクリューと固定した舵が付くようになるので、それらを傷つけずに引き上げるのは困難な作業でした。遠方出漁を実現していくためには漁船の動力化は欠かせないため、長い突堤によって広い静水面が確保され、常時動力船を係留可能な港がどうしても必要となりました。
 そのため舘浦の住民は大正9年(1920)舘浦大波止の築堤に着手し、大正15年(1926)に堤長120間(約240㍍)という当時としては大規模な突堤を完成させ、昭和6年(1931)には堤長80間(約160㍍)の受け波戸を完成させています。これによって動力漁船の常時係留が可能となり、まき網漁業が発展していく事になりますが、驚くべきは総工費21万円のうち国の補助は約1万円(約5%)県の補助は3万円(約14%)程で、残る16万円余り(76%)を住民が負担し、長期に亘って返済しています。
 この舘浦大波止の工事は注目を集め、各地から漁民が視察に訪れ、築堤に当たった生月島の積石工達は九州北西沿岸各地で港湾建設に従事するようになりました。(2020.7)




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