長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

平戸史再考No.004 単材刳船と原始海人の神観念

平戸史再考 単材刳船と原始海人の神観念

 

 『万葉集』で海人が漁に用いた「小舟」と書かれた船は、どのような船だったのだろうか。海人の漁について『万葉集』の歌を見ると、釣りや網漁、潜水漁などが行われているので、それ程大きくない船だった事が想像される。平戸地方で江戸時代から昭和40年代頃まで前述のような漁に使われたのは、「テンマ」や「テント」と呼ばれた木造小型和船である。これらの船は前回紹介したように船底に航(カワラ)という縦通板を敷き、船首に水押(ミヨシ)という柱材、船尾にトダテ(戸立)という板材、側面下部にカジキ、上部にウワダナという板材を付けた断面5枚の板材で船体外板を構成した構造を持つ。こうした和船を造るためには、板同士の接合面をきちんと並行に作る必要があり、そのため接合する板の側面同士を合わせてその間を擦って接合面を整える「擦り合わせ鋸」という特殊な鋸が用いられる。チョウナやノミなどの削る道具だけでも板の面取りは出来なくはないが、手間がかかって時間を食うので量産には向かない。鋸は、紀元前千年頃のエジプトで用いられていた事を示す壁画が見つかっていて、板を使った構造船自体も紀元前3500年のクフ王の時代のものがピラミッドの近くから出土しているが、日本列島に鋸が入ってくるのは室町時代頃だとされているので、それ以前の『万葉集』の頃(奈良時代)に板と柱だけで作る和船が小型漁船として用いられていたとは考えられない。

 そのため『万葉集』当時の「小舟」は丸木船だったと考えられている。丸木船とは、切り倒した木を丸木のまま刳り抜いて船体を作った船である。船の構造の基本要素は浮力・水密・強度・安定性・推進性にあるが、殆どの丸木はそのままでも浮かぶので、取りあえず浮力の要件は満たされる。ただ一本丸木だと安定しないので、例えばそれを複数並べて繋ぎ、上に人や物を載せられるように仕立てる必要がある。それが「筏」だが、筏は前面の抵抗が大きい上、丸木のままだと重いので推進効率はあまり良くない。そのため丸木を一本のままないしは半裁したものの内側を断面U字形になるように刳り抜いて軽量化するとともに、その空間に人や荷物を載せるようにした船が作られるようになる。これが丸木船の中の単材刳船という種類だが、丸木をベースにしているため水密・強度は申し分なく、船首を尖らせたり刳り抜いて軽量化している分、筏より推進性は上がっている。なお丸木船には刳船に板材を組み合わせて作る複材刳船というカテゴリーもあるが、これについては後ほど取り上げ、今回は単材刳船について語りたい。

単材刳船は木を切り倒し、中を刳り抜けば作れるので、斧やチョウナやノミのような道具だけでも製作できる。日本列島に多くの人が住み着いた状況が確認できるのは3万5千年前だが、当時の旧石器時代人が何らかの船を使った可能性については、例えば約2万年前に伊豆諸島の神津島の黒曜石が南関東の遺跡から出土している事などから想定されてはいるが、少なくとも今から1万2千年程前から始まる縄文時代には、単材刳船自体とそれを建造可能な石器の両方が確認されている。千葉県加茂遺跡や福井県鳥浜貝塚の他、長崎県内でも大村湾に面した伊木力遺跡(諫早市)から、縄文前期(7千~5千5百年前頃)の単材刳船が出土している。なお丸木を刳り抜く際には火で内側を焼いて削りやすくした事が、出土した船の内側に残る焦げ跡から想定されている。降水量が多い日本列島は森林資源が豊富で、原始時代には未開発の森林も多く存在したので、刳船を作れる大木の入手も容易だったと思われる。弥生時代に入っても長崎県下では小野町遺跡(諫早市)から単材刳船が出土しているが、弥生時代には大陸から金属製(特に鉄製)の道具が伝わっているので、石器で作るより容易に単材刳船が建造できるようになったと思われる。さらに長崎県下の唐比遺跡(諫早市)からは平安時代とされる単材刳船が出土しているが、単材刳船は木材入手が容易な北海道や東北、若狭湾、南西諸島などでほんの百年前頃まで建造・使用されている。この事からも『万葉集』が編まれた奈良時代には、海人の小舟として単材刳船が使用されていた事が証明できる。

しかし単材刳船のサイズは丸木のサイズに制約され、喫水や船幅も小さく、船上に立つのも難しいため、その推進法は専ら座って櫂を漕ぐスタイルだったと思われる。船の前後とも尖った形のものが多いのは、櫂による推進に適しているからだと考えられるが、時代が下ると船尾が面になっているものも登場し、こちらは櫓の使用に適応した形だと考えられている。但しその場合乗員は立って櫓を押す必要がある。また小型の単材刳船は波の影響を受けやすいので、大波が立つ沖合より岸に近い沿岸を専ら航海したと思われ、小さな船体は座礁の危険を回避しやすい点でも沿岸航海に有利だった。波静かな内湾や潟湖、湖沼などは単材刳船の絶好の行動域だが、長崎県下で単材刳船が出土している場所がいずれも大村湾、諫早湾、唐比潟など内湾に面している事も、そうした使用法の可能性を裏付けている。但し外洋海域でも用いられた事については、前述した神津島の黒曜石の移動の他、後述する移動・運搬の所で紹介する通りである。また平戸瀬戸に面したつぐめの鼻遺跡で縄文早期末(約6千年前)の地層から多数発見されている石銛は、鯨類などの突き取りに用いた道具と考えられているが、この場合にも単材刳船で流れの速い瀬戸に乗り出す必要があった。これは想像だが、普段は北西九州の広い海域に散らばって漁をしている海人達が、北に還る鯨が通過する春の時期に平戸瀬戸に船で集まり、協力して鯨を捕って解体し、保存食(干肉)となる鯨肉や油となる脂身を確保したのではないだろうか。もちろん鯨を取った後には、皆で盛大に鯨肉パーティーを開いた事だろう。

漁以外の船の重要な活用法が移動・運搬である。例えば伊万里市の腰岳で取れる黒曜石製の道具が朝鮮半島南部から見つかっているのは、黒曜石の原石を、朝鮮海峡を単材刳船で横断して運んだ者が居たからで、朝鮮半島と北部九州で相方の形式の土器が見つかっているのも、両地域の継続的交流が背景にあると考えられているが、黒曜石の原石や土器ならば単材刳船で充分運搬可能である。継続的に往来がなされたとすると、例えばどの方向に進めば海流に流されきらずに対岸に着けるかや、どのような天候ならば横断中、悪天候に急変する危険が無いか等の知識が海人に蓄積・共有されていたと考えられ、おそらくは東松浦半島から壱岐、対馬、朝鮮半島南岸を結ぶ「航路」が確立していた事は間違いない。また日本海沿岸にも縄文時代、単材刳船による遠距離交通があった事は、新潟県糸魚川で産出するヒスイを使った製品が青森や北海道南部などの縄文時代中期(約5千年前)の遺跡で見つかっている事から推測される。海を横断する場合には当然船は不可欠だが、陸地伝いの場合にも、陸上に道が発達していない時代には、船による海路の方が遙かに移動が容易だったと思われる。船ならば熊や狼に襲われる危険は無いし、人が担いで運ぶのには量や重さ的に難しい品物も楽に運ぶ事ができ、長期の移動の場合に必要となる相当量の食料や最低限の居住資材も楽に運搬できる。日没や嵐の場合にも、岸近くを航海しながら小さな浜があれば引き上げられる単材刳船ならば容易に対処できる。また陸上を長距離移動する場合、ある集団に接触して域内の安全な道の情報を得たとしても、その地域を抜けて次の地域に入るとまた別の集団に接触して道の情報を得なければならず、長距離の場合それを何度も繰り返す面倒がある。しかし船ならば、人との接触もそれ程必要なく容易に長距離を移動できる。こうした事を考えると、縄文以来、船を用いて海を生活の場とした海人達にとっては、陸地の方がかえって「異界」と認識されていたのかも知れないと思う。

弥生時代には、次の回で紹介するように中国大陸から渡来人がたくさん渡ってくる。しかし西北九州の沿岸部には縄文人の系統をひく海人が活動していた事が、特徴的な形質の人骨の出土から確認されている。例えば佐賀県唐津市の大友遺跡や長崎県平戸市の根獅子遺跡では、海際の砂丘に営まれた墓地から多数の人骨が出土しているが、それらの人骨の形質的特徴は、渡来人ではなく縄文人の形質を残している。おそらくは彼らが『魏志』倭人伝に「好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之」と記された潜水漁などに勤しむ海人だと思われるが、海際に墓地を設けるのも、彼らが自分達の生活域である海に接した場所こそが葬地に相応しいと認識していたからであろう。彼らは古墳時代以降もそのままの暮らしを続け、『肥前国風土記』には「白水郎」「土蜘蛛」と記されるが、この時代彼らは福岡沖の相島、呼子沖の加部島、平戸の度島、五島の小値賀島など沿岸航路に近接する位置にある平坦な島を好んで拠点とし、彼らの首長の墳墓である小古墳や積石塚の群集墓をこうした島々や本土の海際の場所に築いている。中世になると彼らは「海夫」という名で呼ばれ、松浦地方に割拠する小豪族(彼らの集団が「松浦党」と呼ばれた)に従属して漁労や交易、時には船戦に従事したが、彼らの中には船を生業のみならず居住空間とする「家船」の形態を取る者もいた。船住まいの場合も、船の中のみが人間が統べる空間で、彼らの主要な生活の場となる海も「俗界」と認識され、陸の方が却って「異界」と意識されたと思われる。また彼ら海人は海沿いにあって航海の目印や、漁場を確認する山アテの目印となり、荒天時には風を遮る存在となる高い山を神とみなし、山とそこに接する陸地を神域と見なしたと思われる。例えば対馬下島の南部にある竜良山は古くから対馬の人に天道神の山として信仰され、現在も麓の八丁角あたりから不入の神域とされているが、以前はそこから近い海岸の浅藻までが人の居住を忌む神域となっていた事が、民俗学者・宮本常一が聞き取りをした周防大島の移住漁師・梶田富五郎氏の話から伺える。他国者である大島の漁師は鰤釣りのために海を渡って出漁してきて、地元の人が神域として寄りつかない浅藻の海岸に住み着いたのである。この天道信仰の空間と同じ構造を持つのが安芸の宮島で、宮島全体が神域と認識されているため、平清盛が建立した厳島神社は島の陸上に建てられず、陸上に接した渚の上に社殿が建てられている。

そしてこの「海=俗界」「陸=異界」という海人の意識を行事に反映している行事が、平戸島の南端・志自岐(志々伎)神社の例大祭である。同社は志々伎山(標高347㍍)を神域とする式内社で、現在は山頂に上宮、中腹に中宮が鎮座する他、宮ノ浦湾に面した宮ノ浦集落の外れに辺都宮(邊津宮)が、宮ノ浦湾の中央に浮かぶ沖ノ島に沖都宮が鎮座する。これら四社からなる構成は、弘安7年(1284)の「肥前国松浦郡志々伎宮制進院宣國等一巻」に確認できるが(上宮、中宮、下宮、御嶋社)、久田松和則氏が推測されているように、原初の形態は志々伎山を神体・神域とする形で辺都宮と沖都宮の二社で構成され、平安後期頃、神域だった山中に密教寺院が建立される過程で中宮と上宮が成立したと思われる。この中世山岳寺院については後日詳しく述べたい。

新暦11月7・8日(元は旧暦9月7・8日)に行われる志自岐神社の例大祭は、宮ノ浦にある辺都宮と沖都宮を祭場として行われる。7日夕刻、沖ノ島にある沖都宮(沖の宮)に神主ほか関係者が集まり、神事の後、御輿が取り付け道路を渡って宮ノ浦本土の山麓にある辺都宮(地の宮)に着き、宵祭が行われる。翌8日は朝から神事を行うが、神楽が演じられている間、宮ノ浦で世襲されている社役2人が茨の冠と木太刀を着けて辺津宮背後の森に入る。そして森の中にある祠に広葉に包んだ御飯と酒を供えて戻る。この一連の儀式をヤマド祭りというが、森に入っている間社役は言葉を発する事を禁じられている。 昼過ぎには御輿が辺都宮を発し沖都宮に戻る。神事の後、社殿の周りを参加者が三回まわりし、最後に社役が組み合って回る神相撲を行って祭を終える。

 この例大祭では、湾内の小島にある宮から山の麓にある宮に御輿が行き、神事を行った後、小島の宮に戻る。仮にこの御輿の動きに注目すると、沖都宮に坐す神が辺都宮に渡り、神事後沖都宮に戻る形なので、神様の常在地は沖ノ島の沖都宮という事になるが、志々伎神や志々伎山という名称を斟酌すると、沖ノ島が信仰の中心とは考え難い。それよりも前述した海人の意識に立ち、小島(海)を俗界の祭場、山(志々伎山)を神域とみなした上で、祭の時に神域の端(境)にある祭場に出向いて祭事を行う形を祭の中に反映したと捉えた方がしっくりとする。この祭の中心は、社役が神域である森に入って供物を供える儀礼だが、森の中で声を出すのを禁じるのは、神域では人間の存在を消す必要があるからで、茨冠や木太刀などを付けるのは、神域である森と同化するためである。ヤマド祭を含めた例大祭は、近世以降の神道祭祀以前の古いカミマツリのあり方を残しているが、その思想的基層には、海=俗界、山(陸)=神界(異界)という認識に立って志々伎山を神として崇拝する古い海人の意識が存在しているのである。(2020.7)




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