長崎県平戸市生月町博物館「島の館」

平戸史再考No.005 復材刳船と渡来人

復材刳船と渡来人

 

 日本列島では弥生時代(紀元前400年頃~)以降、大陸から稲作や金属器がもたらされ、クニが生まれたとされている。ただ稲作については近年、炭化米や土器に付いた籾跡、プラントオパール(稲に特有の物質)の確認から縄文時代後期(紀元前2000年頃)には導入されていたとされる。こうした新たな文化要素には、大陸から来た渡来人達が深く関与していたとされる。

松下孝幸氏によると、北部九州から山口県の弥生時代の遺跡から出土する人骨は、高身長(と言っても男性で163㌢程度)、顔面の起伏が小さい(扁平)などの特徴を有するが、それが中国の山東省辺りで見つかっている戦国時代(紀元前400年頃)の人骨の特徴と一致するという。春秋・戦国時代、山東半島付近には斉国(紀元前1064年~前221年)、その北の渤海北岸から遼東半島にかけては燕国(紀元前1100年頃~前222年)があり、他の諸国も合わせて互いに侵略しあっていたが(最終的には秦が征服)、こうした戦乱を避けて住民が日本列島に渡来した可能性はある。また燕の勢力は朝鮮半島に及んでいたともされるが、『三国遺事』には紀元前194年には周を逃れた殷の王族で朝鮮候の箕氏が部下の衛満に滅ぼされ、その際に逃亡した王・箕準が南の馬韓に至り韓王になったという記事もあり、そのまま事実と受け取らないにしても、中国の戦乱が朝鮮半島にも影響を及ぼし、半島の住民が海を渡って移住した事も考えられる。

移住に際しては当座の食料とともに翌年の種子、農業や生活、開拓に必要な道具などを運ぶ必要があるが、それだけの荷物と人を運ぶには単材刳船は小さ過ぎ、運搬に対応できるより大きな船として考えられるのが復材刳船である。弥生時代の銅鐸や土器には、多数の櫂と船尾舷側に梶の役割を果たす櫂を備え、船高は低く前後が反り上がった形の船が描かれているが、これらは復材刳船を描いた可能性がある。

復材刳船は、文字通り複数の丸木で船体を作った刳船で、前後を分割して作るタイプと、左右を分割して作るタイプがある。前者には、前後をそれぞれ別の丸木を刳って作り接合したもの(二材型)や、船体の中央部と前後をそれぞれ作って接合したもの(三材型)などが考えられるが、銅鐸や土器の絵にある前後が反り上がった船は、前後に反り上がった刳り部材を取り付けた三材型かも知れない。要するに前後分割型は要するに船を前後方向に大きくして積載量を増やしたもので、胴体を分割するとさらに船長を伸ばす事も可能だが、そこで重要となるのは刳船船体同士の接合技術である。

古墳時代や奈良時代の復材刳船構造の船は各地で出土例があるが、出土時の記録を見ると、接合する片方の船材の端部上部を刳り込み、もう片方の船材の端部下部を先の繰り込みに合わさるように削って合わせる印籠継ぎの方法が取られ、両材の固定には貫通させた穴に木棒を打ち込む梁や、梁と船底の間に差し込んだ閂(かんぬき)で接合部を押さえたり、釘を用いている。また接合面には槇皮(まきはだ)という樹皮をかませて水漏れを防いでいる。渡来人は鉄の斧や鑿(のみ)を持っているので、刳船も容易に作れたが、復材刳船の場合は閂の穴を刳ったり船体の接合面を整えたりする作業が必要となるので、鉄の鑿や槍鉋(やりがんな)が無いと効率的には進められない。またこの構造では船体を前後に延ばす事はできるが、船幅は変わらず、大型化すればする程船体が細長くなるため、複数の船体をただ継ぎ合わせているだけの構造では折損の危険が増す事になる。そのため大型化は(用いる丸木の太さにもよるが)全長20㍍程度が限度だと考えられる。そうした船体構造の脆弱性はあるものの、荒天を避けさえすれば問題なかったのだろう。

一方、複材刳船の左右分割タイプには、刳船の左右を別々の丸木で作って接合したり、単材刳船を縦方向に分割し、間に板を挟んで広げる方法などがあり、要するに船幅を広げることで大型化を図るやり方である。ただ横に分割された船底刳船部分同士や、その間に板を挟んだ場合も、各部材を接合する際に、前後分割の時のような印籠継ぎの方法は、接合部の幅が取れないので出来ず、また接合部分も長大になり強度の確保にも不安があるため、鋸や釘が導入される前の段階では(特に大型船には)一般化しなかったと考える。

次に複材刳船の航路だが、かりに中国大陸を発った人々が家族単位で復材刳船に乗って日本列島を目指す場合、まず朝鮮半島に至る航路については、①渤海沿岸を岸伝いに進む航路、②山東半島から渤海を北東に横断して遼東半島に達する航路、③山東半島から黄海を東に横断して朝鮮半島(現在の北朝鮮黄海南道)付近に至る航路が考えられる。航海的に安全なのは①だが、当時中国は春秋・戦国時代で、敵対勢力(当時、渤海北岸は燕の領域だった)を避ける必要がある場合に②や③のルートが用いられた可能性がある。そして朝鮮半島西岸を沿岸沿いに南下して半島南岸に至るが、半島南岸には紀元前7世紀頃には金属器などの文化が存在した事を考えると、中国大陸から朝鮮半島までの航路はその頃までに拓かれていたと思われ、さらに対馬、壱岐などを経由して東松浦半島に到る朝鮮海峡横断航路も縄文時代に確立されているので、それを利用したと考えられる。

北部九州に至った渡来人は、比較的広い平野がある糸島、福岡、佐賀筑後平野に定着し、谷の出口、平野の微高地斜面、微高地縁辺と徐々に水田を広げていった。そして微高地上に住居群(集落)を設けてその周囲を壕(溝)で囲み、亡くなると甕棺という大きな土器の甕に入れて埋葬した。佐賀県の吉野ケ里遺跡はこれらの文化要素を持つ代表的な遺跡だが、環壕や甕棺には移住者特有の世界観が反映されていると思われる。縄文時代にも同じ地理的環境の中で人々は暮らしていたが、縄文人には特定地点の使用を専用する観念まではあっても、空間を面的に占有する観念は無かったと思われる。しかし渡来人に取っての移住地は、自分達が物語的に理解できる世界ではない不安定で危険な世界と認識された。そのため彼らは、自分達が確かに認識・把握して安全に暮らせる空間を環壕による区分で作り出す必要があったのである。そして環壕の中の空間では、故国由来の天上のカミ(これが記紀に登場する天津神の観念の起源と思われる)を祀る行事が行われ、環壕内の安寧やその周辺で行われる農業等の生産の安定、環壕内集落民の安全を祈願したと思われる。天のカミという認識の発生は、農耕社会において降雨や日照など天空に関する事象が重視される事に起因していると考えられるのである。

渡来人は死後も、異世界に遺体を同化させるのを良しとせず、同化を拒否する潜在意識をもって甕棺という器に収めて埋葬した事が考えられる。こうした移住地を否定する意識は、数世代経った世代では物語による周辺地域の認識が進んだ事で薄れ、結果的に環壕も甕棺も廃れたと思われる(地域によっては現実的な戦乱からの防御の必要性から環壕が残っていく場合もあった)。この環壕の消滅によって環壕内自世界への執着は消滅していくが、並行して環壕内自世界で培われた区画・掌握の意識が環壕外に拡大されていった事で、面的な空間が統合・支配された存在であるクニが形成されていったのではないかと考える。そしてその過程で、拡大した世界にある自然を統御して人間生活に益ならしめ、その過程で自然の存在をカミとして祀るようになっていった事が考えられるのである。これらのカミの概念が記紀における国津神に繋がるのだが、その過程では土着の縄文人が信仰するカミが取り込まれていった状況もあったと思われる。

さて稲作と金属器の技術を携えた渡来人集団は、北部九州から瀬戸内海に入り、海域に面した吉備(岡山県)などに入植しながら東に向かい、大阪湾に上陸して奈良盆地に達している。一方日本海沿岸でも出雲(島根県)や丹後(京都府)に入植している。こうした進出の際にも復材刳船が活用されたのだろう。一方北部九州から西については、唐津、壱岐、対馬が朝鮮半島に渡る航路の中継地として重視されたが、さらに西の平戸周辺や五島については、基本的には縄文人の血を引く北西九州型弥生人が活躍する世界だった。

しかし九州西岸地域や有明海沿岸における稲作や金属器の流入という状況を考えると、朝鮮半島から金属器や原料がもたらされる北部九州と九州西岸地域との連絡・交易ルートとして、平戸瀬戸を通過して九州西岸伝いに南下する航路は重要な役割を果たしたと思われる。例えば朝鮮半島で紀元前500年頃から見られる上部に大きな平石を載せた支石墓という墓制が、平戸瀬戸近傍の大野台(佐世保市鹿町町)や、島原半島の原山(島原市)の縄文時代晩期の遺跡からまとまって見つかっているが、朝鮮半島由来の文化を身につけた集団が九州西岸を南下した可能性を示唆している。また平戸瀬戸の東側にある里田原遺跡(平戸市田平町)からは、縄文時代晩期末以降、稲作が行われた事を示す、水田や水門の遺構、木製農具、プラントオパールなどが見つかっている。里田原遺跡は平戸瀬戸北口に近接した釜田湾から川を遡った盆地にある事から、九州西岸航路の要衝である平戸瀬戸に近接した場所を選んで集落が拓かれ稲作が行われた可能性がある。

また北部九州各地の渡来人系の墓地からは、南西諸島南部の海で取れるゴホウラ貝やイモ貝を材料に作った貝輪を装着した人骨が見つかっているが、これらの貝輪は特定の人骨しか装着していない事から、呪具や祭具、威信材としての価値を持つ貴重品だったと思われる。沖縄本島の遺跡からはゴホウラ貝を集積・加工した状況を示す遺構が見つかっているが、こうした貝を北部九州まで運んだのは、刳船を操る北西九州系弥生人だった可能性があり、平戸瀬戸には南西諸島と北部九州を結ぶ「貝の道」も通っていた事になる。

大陸の輸入品が入手しやすい地理的条件を有した北部九州の地域では、伊都国や奴国など集権的な政体を持つクニが登場してくる。瀬戸内海沿岸や日本海沿岸にも大規模な集落が現れているが、弥生時代中期の段階では北部九州諸国が技術的にも規模的にも優位に立っていた。加えて北部九州のクニグニは、当時東アジアの超大国だった漢帝国を後ろ盾としている。漢は紀元前108年に朝鮮半島北方に四郡を置いているが、そのうち今日の平壌周辺にあった楽浪郡が、朝鮮諸国や日本列島の倭人の外交窓口として機能している。『後漢書』には建武中元2年(57)に後漢・光武帝に奴国が朝貢して印綬を受けた記事があり、永初元年(107)には倭国王帥升が生口(奴隷)160人を献じて謁見を願った記事があるが、この倭国王については同時期の王墓の副葬品の在り方などから伊都国の王と考えられている。倭人諸国の朝貢に際しては、彼らと交易関係があった朝鮮南部の韓族や倭族が協力した事が考えられる。

この使節は160人の生口の他にも使者や随行者、護衛、漕ぎ手などがいたと考えられるので、総人数は300に達していたと思われる。これだけの大人数が一度に遠距離を航海するとなると相当数の船が必要となるが、船自体も復材刳船より大型化していた可能性が高い。その船型が準構造船で、恐らくは中国大陸で作られていたものが導入されたと考えられるが、古墳時代にはこの船型の姿を作った船形埴輪が古墳に供えられ、『万葉集』には「大船」という名称で紹介され、平安、鎌倉期の絵巻物には貴人が乗る船や軍船として描かれているように、日本列島では長く用いられている。

構造船は、船の外板、構造部を複数の板や柱などを完全に加工された部材で作ったものだが、これに「準」が付くのは、板や柱を用いてはいるものの、船底部については単材・復材の刳船構造を用いているからである。簡単に言うと準構造船は、刳船の上部に板材を足して上・横方向に大型化したものだが、復材刳船は刳船を前後方向に大型化したものであるのに対し、準構造船はさらにそれを上方向・横方向に大型化したものだと言える。

古墳時代に準構造船を模して作られた船形埴輪を見ると、(復材)刳船の船底の船首尾がゴンドラのように反り上がったものに舷側の板材を足した西都原型と、比較的平坦な刳船の船底の上に舷側の板材と船首尾の斜め前方に付きだした板材を取り付けて箱形の船体空間を作った長原高廻型があり、宗像の沖ノ島で発見された滑石製舟形にもこの両形式を表したと思しき二種類がある。西都原型は、船首尾の上部が抜けているためそこから向かい波や追い波を受ける弱点があり(但し埴輪のその部分に別に板材が付いていた可能性も否定できない)、反り上った船首尾材は別個に繰船構造で作った三材型復材刳船である可能性が高いが、総じて船底の刳船構造に船体強度を依存している印象はある。この型は中世になると、船首尾材(刳船)の反り返りが小さくなる一方で船首中央が尖った形状となり、上部の舷側板はその船首尾材に接合され、船体上に板敷き甲板が設けられるようになった事が考えられる。一方、長原高廻型は実際に遺跡からも出土しているが、船底の刳船構造に加えて上部の板材による箱形構造も梁や横壁で強度を保持している。刳船の船底材が前後に突き出した船形は中世日本に残る事は無かったが、中国大陸においては、船首と船尾を構成する板材が船底材の先端に移動する事によって戸立造りの船形が成立し、さらに鋸の導入によって船底が刳船から板材に移行するのと並行して多数の横壁が設けられる事で、船体全体を箱形構造化して強度を保持するようになり、ジャンクの船体構造が完成した事が考えられる。但し成立当初のジャンクは平底の船体(沙船)だったと考えられるが、この平底船底は内陸水域で用いた筏の構造を基本とし、それに舷側板や船首尾が付く形で船化した可能性も存在する。またジャンクの帆走艤装については8世紀になって中国世界に登場したイスラムのダウ船の大三角帆が原形となったのだろう。

準構造船の舷側上部の板材については、斧で切った丸木の切断面に鑿で溝を入れ、鏨を打ち込んで割ると板となり、それを鑿や槍鉋(やりがんな)を使えばある程度は平面に整える事ができる。弥生時代に板の製作が行われていた事については、静岡県の登呂遺跡など各地の水田遺構で土留めの矢板が大量に出土している事からも確認できる。次に重要なのは刳船部分と側面板、船首尾の板材相互の接合だが、それには「ほぞ」を「ほぞ穴」にはめ込む方法が取られている。船体強度はおもに船底材の刳船部分に依るが、復材刳船の場合には接合部分の脆弱性が存在した。一方で上部の板材部分にも舷側板間にも船梁という柱や板材を挟む事で強度を確保し、全体の強度を高めている。

但し水密性については、鋸を用いない段階では、刳船や板材の継ぎ目の水面下になった状態での水密を長時間保持できるような接合は難しく、詰め物(槇皮)などで補完したのだろうが、凪の場合には何とかなっても、荒天時に材に過度の負担がかかると浸水も起きたと思われる。このため準構造船の航海は平穏時に限られ、不意の嵐の際にも早く着岸できるように、極力沿岸を航海した事が考えられるのである。(2020.8.1中園記)




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